妻の造形

                                                千代子さん


 まだ朝も迎えていない部屋で、となりに眠っていた夫の気配がないことにハディは気が付いた。
 気だるい躯を起こして窓の外を見ると、まだ太陽も東の空に現れておらず、こんな早朝にどこへ行ったのかしらん、と床に脱ぎ捨ててあったガウンを羽織り、窓辺に立った。
 今日は皇帝皇妃両陛下にも、特にこれといった政務も謁見もなかったはずであり、火急のなにかが入った気配も、静まり返った王宮からはなにも漂ってきていない。
 ハディはまだ眠たいのもあって、寝台に戻ってその身を横たえ、イルが帰ってくるまでは起きていようと思ったが、いつのまにかとろとろしていたらしい。
 つと、扉の開く音がしたのでぼんやりとそちらを見やると、部屋の中には早朝の日の光が差し込んでおり、あれからしばらく時間が立ったのが判った。そして音の主がこちらに近寄ってきて、そっと自分の額の後れ毛をかきあげたところで目がさえ、
 「イルさま」
 とその相手を呼んだ。
 「起こしたか? まだ早い。もう少し眠っていろ」
 そう言いながら、イルはハディの隣に身を横たえた。
 「どちらに行かれておいでだったのです?」
 「…大した用ではない」
 「皇帝陛下か皇妃陛下になにかございましたか?」
 「お二方はまだお休みだ。行ってお眠りを妨げるようなことはするでないぞ」
 「…………」
 どこか怒気を含んだようなイルの声色にハディは不安になり、つとこちらに向けられた背に手をやると、じんわりと汗ばんでいた。
 今は早春、少しくらい外に出ただけでは汗などかかぬと思えば、何かしらと不思議になり、何の気なしに触れた髪が湿っているのも妙に気になった。
 「……お湯殿をお使いになりましたの?」
 答えはなかった。無言の返事というのはこれほど耐えがたいものかと、ハディは改めて思った。
 イルはよく、皇帝陛下にも無言で答えを出すことをする。それは陛下だからこそ通用するものであって、妻である自分にはせめて一言でもよい、なにか言って欲しいと思う。
 「お珍しいこと、イルさまがこのような早朝にお湯をお使いになられるなど」
 まだ眠気を孕んだ声で、棘を含ませた言葉を吐くと、ハディはそのまま眠りに落ちてしまったらしい。

 眠りは浅かったのか、ハディはうつつに夢を見ていた。
 イルは女を囲っていた。
 長く美しい髪を持つ、若い娘である。
 彼は少女ともおぼしき女の髪を愛しそうになで、その髪を幾度も幾度も自身の愛用の櫛で梳り、丹念に手入れをしてやっている。
 湯殿で女の髪が浴槽にたっぷりと溜められた湯に広がり、朝の光の中湯気を立てる湯の、ゆったりとした波にうねり、ゆらめき、なんとも言えない美しさをかもし出していた。
 イルは櫛を出し、髪付け油を含ませ、長い髪を丹念に乾かす。
 ――女は誰なのだろう?
 顔を覗き込んでやろうとしたとき、イルが立ち上がり、女に手を差し伸べたところで目がさめた。
 が、ハディの心臓はしたたかに脈打ちつづけ、息も荒く、よもやこれが夢とは思えぬまでに生々しい記憶を、脳裏にまざまざと刻み付けられてしまった感があった。
 「夢…」
 息を整えながらやおら起き上がり、外を見るとすでに一日は始まっており、王宮のほうからは朝の賑わいが聞こえてきている。
 いけない、寝すごした、と思い、急いで頭を叩いて着替え始めたが、身体に鉛でもついたかのように重く、思い通りに動かないのは口惜しかった。
 ――イルさまがいけないのよ。
 いつもは夫に従順なハディだが、今朝ばかりはイルを詰りたくなってしまう。
 ――まさか、ほんとうに別の女を囲っているのじゃないかしら。
 イルは皇帝陛下の側近の筆頭でもある。各方面からの求婚は多く、それは名誉ある家や名高い貴族のものからが殆んどで、ハディのような平民の妻があることをいいことに送りつけられてくるものであったから、ハディは少なからず動揺せざるを得ない。
 以前、寝物語で、珍しく酒の入って陽気なイルに、どうしてほかに女の人を迎えないの、と鼻の頭をつつきながらからかったことがあるが、そのときもイルは、
 「陛下がおひとりしかお傍に置かれておらぬに、どうして臣下の身で…」
 としらっと言ってのけたが、それをハディはどこまでも信じていた。このひとがまんざら嘘を付くようなこともあるまいと思えるがためであった。

 昼間は皇帝の懐刀として目を光らせていなければならないイルだが、寝所では母親の面影を求める少年のようにハディを求め、そして執拗なまでにその身体に愛を刻み込む。
 一緒になって早五年が経つが、いまだ妊娠の兆しの見えぬハディを気遣い、ハディ一人で憂いているときなど、それを察して慰めてくれるのはいつもイルであった。
 皇帝のように皇妃へ昼も夜もとわず、一日中愛を囁いているのも羨ましく、妹夫婦のように友達の延長のように暮らし、生まれるたびに母親の遺伝か、双子ばかり生まれてくるのを育てるのも、忙しいながらもひとつの家族の形だと見ていてほほえましいが、それを思うにつけ、やはり夫の自分への愛はひとかどではないことを思わずにはいられない。
 その夫にかぎって、まさか側女を作ったなどというのは信じられないことであった。
 だが、朝方、まだ暗いうちからいつ抜け出したとも知れぬ寝床に汗をかいて戻り、それを気とられないようにしていたことは、疑う余地充分ではないかとも思えた。
 「いけない、こんなことじゃ…」
 ハディはともすれば溢れてくる涙を、けして流すまいと思い、きっと天井を睨んだ。
 どこまでもあのお方を信じていよう、と思うとすっと気分は楽になるが、では何故私に隠し事をなさるのか、と行きつけば、たまらなく悲しくなるのは致し方なかった。

 その夜、皇妃の湯浴みを手伝いながら、ハディはしばらくぼんやりとしていたらしい。
 「ハディ、そこ、ちがう…」
 皇妃の驚きにみちた声が頭の上からかかってきたので、はっとして自分の手先を見ると、本来胸元に塗るべき香油を、こともあろうに乳房の先端に塗ろうとしてしまっていた。
 「も、申し訳ございませぬ」
 ハディは慌ててそれをふき取ろうと顔を寄せたとき、ユーリの白い乳房に黄色をした跡がいくつか群れになってあるのに気が付いた。
 「皇妃さま、なにか妙な薬でも塗られましたの?」
 ユーリはハディの指し示す肌を見て、
 「ああ、それ? …それはカイルの…やっとこのところ色が引いてきたんだけど…なんだかこんなになっちゃうと色っぽくも何ともないね」
 とうつむき加減に話した。
 なるほど、この黄色の跡は愛の名残の紅色の印だったのが、だんだんと引いて治りかけている色か、と気がついて、かえってハディのほうが恥ずかしくなってしまった。
 皇妃はちょうど三人目の懐妊が判ったばかりで、皇帝も夜の戯れを自粛していたとあって、こんなに色が引き、もとの肌の色を取り戻し始めたのだろうとは推測できるが、いくら女としての悦びを知っている身でも、ハディにはそれがどれほど艶かしく、かつ妖しげに見えただろうか。
 ユーリは、カイルにも我慢してもらわなくちゃ、と笑っていたが、どこか寂しそうなのは傍目にも判り、ハディは密かに心のうちで、
 「皇妃さまも耐えていらっしゃる」
 と思ったが、さすがにそれは、今のハディには口に出すことは出来なかった。

 イルの朝出はしばらく続いているようだったが、ハディは夜の疲れからなかなか早く目覚めることが出来ず、ぼんやりとしてはまだ夜の明けきらぬうちに帰ってくるイルを、寝台の中でぐったりとしたまま迎えるというのを繰り返してばかりだった。
 そうこうしているうち、春もすぐに行くと、夏の匂いが鼻をくすぐり始め、皇妃の腹も膨らみつつある中で、イルは毎夜、さもいとおしそうにハディを抱き続けた。
 別に今までの夜と大して変わりはないと思えたが、ハディには永遠にも感じられるほどの執拗な愛撫をその身に受け、幾度恍惚の世界に誘われただろうか。
 皇帝夫婦が寝所に引き上げたところで、二人の一日の仕事は終わりを告げる。
王宮に隣接した二人の住まいには、夜も深まってきた頃、濃密な男と女の香りが立ち込め、それはどのような激しい香りを放つ香を焚いたところで容易に消えそうもなかった。
 イルは、ハディの躯を充分に味わった後、疲れて荒く息をしたままのハディをうつぶせにして、その背から尻にかけて、まるで真綿の中から綿の花を探し出すような、そんな繊細な手付きで撫でまわす。
 特に尻には丹念な愛撫を与え、ハディが恥ずかしさと耐えられなさで身をよじると、それを許さぬとばかりに元の位置に躯を押し戻させる。
 「お許しくださいませ…」
 小さな声でそう哀願めいても、イルの耳に聞こえるわけはなく、ハディはふと思いついて躯の向きを変え、イルの後頭部を抱いてしばらくその眼をじっと覗き込んだ。
 「なにをなさりたいのです…?」
 イルは答えず、さらにハディの躯を元に戻そうとする。
 「いけずなお方」
 そういいながら、ハディはひとつ、イルの髪をまとめていたものを取り上げた。
 自慢の髪が、ハディの腰あたりにはらりと落ちた。
 イルはそれを許したのか、ハディの胸に顔をうずめながら、妻のやりたいようにさせていた。
 ハディはそれを肯定と受け取り、もうひとつ、もうひとつと髪の戒めを解いてゆき、とうとう最後の根元に手をかけたとき、
 「イルさま」
 と名を呼んだ。
 イルは物憂げに顔を上げ、ハディの頬に唇を当てると、再び躯のうちの熱に浮かされ始めたらしい。
 ハディは突然のイルの行動に戸惑いながらも、最後に手をかけた髪の止め具を取り上げ、するとたちまちイルの髪はハディの顔や腕のいたるところにかかることになったが、それはとても心地の良いものだと思った。

 恍惚の時間、どれほどハディは熱に浮かされていたのか、気がついたとき、あたりは朝の気配が満ちており、イルの姿は隣になかった。
 皇帝一家はすでに朝の食事の座についているようだった。
 幼い皇太子と、その弟がかわるがわる母親である皇妃になにかを言っているのが、廊下越しからでも伝わってくる。
 寝過ごしたばかりか、昨夜の名残で身体に力が入りきらないハディは、いそいそとその間に入って行ったが、そのとたん、妹たちに取り巻かれて、
 「姉さん、ねぇ、あれ見てよ」
 と双方同時に指を指されたのは、皇子たちがはしゃぎまわっているほうだった。
 「なに?」
 目を凝らしてみると、どうにも橙色の大きなものが横たわってあるようだ。
 「ああ、ハディ、これ見て」
 皇妃が手ずから手招きをして、ハディを呼び寄せてくれた。
 「これは…」
 ハディが見たのは、巨大かぼちゃだった。
 それも、どこかなめらかな線をしていて、作り上げた者の心のこめ具合が判るようだった。
 「イルがね、作っていたんだって」
 皇妃の言葉に、思わずハディは傍らに立っていた夫を返り見た。
 「農作業なんて大変だったでしょう? 朝早いし、ちょっと油断するとダメになっちゃうものね。
 それにしても大きなかぼちゃね。ここまでするの、大変だったでしょ」
 「いえ、なかなか楽しゅうございました」
 相変わらずしれっと言ってのけるイルに、ハディは卒倒してしまうほど驚いたが、同時にこれで全てのなぞが解けた、と思った。
 イルは毎朝、このかぼちゃを育てるがために早く起き、したがって朝湯でもしていたのだろう。汗と髪の濡れていたのはそのためであったに違いない。
 「ねぇ、お母さま、このかぼちゃ、食べられるの?」
 皇太子がねだっている。が、皇妃が答える前にイルが珍しく声を張り上げ、
 「いえ、殿下。これはわたくしが品評会に出すものでして、お召し上がりになられるのは外のかぼちゃ畑から取り上げて参りましたものになさってくださいませ」
 と言ったのには一同驚いて二の口が利けなかったと言う。

 「それにしても…」
 皇帝夫妻が政務室に行き、皇子たちが庭に出て行ったので二人きりになったとき、ハディはイルに尋ねた。
 「どうしてかぼちゃなんて品評会に出すのです?」
 そんなこと、いままで一度もなかったではありませんか、というハディに、イルはひとつ咳払いをしたが目を輝かせて、
 「今度の品評会は珍しい形をした野菜がテーマでな、それも愛するもの≠ネんだ。
 だから、そなたの形にするまでどれほど手を込めたことか。だがその甲斐あって、なかなかいい形だろう?」
 と巨大かぼちゃを指差した。
 「ええ」
 とうなずき、愛するもの≠ノ自分の形を選んでくれた夫に対して、愛を感じながら、ハディはふと気がついて、
 「わたくしの形とは、わたくしのどこの?」
 と問うた。
 イルは手を伸ばしてハディの尻を軽く叩きながら、
 「さすがに、幾度も確かめただけあってそっくりだな」
 と満足そうに言い残して、自分も執務室に引き上げて行った。
 ハディはしばらく呆然としながらも、かぼちゃの形をよく見やった。よくよく見れば見るほど、女の尻のようにも見えなくはない。
そして確かめたとはなに、と頭の中で反芻してみて、やがてやおら耳が熱くなり、あの夜のしつこい愛撫はこのためか、と気が付いた。
 なんと言う恥ずかしさ、これは絶対に誰にも知られてはならぬと思いながら、気を静めるために走って中庭を横切ったハディの足元には、尻≠ノなり損ねたイルのかぼちゃが無数に転がっている。


                              (終わり)

       

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