いざ、大奥へ
by 千代子さん
「まったく、あなたさまというお方は…」
ハディの局のこめかみがぴくぴくと痙攣している。
「突然お城から逃げたと思ったら、上さまに連れられて戻っておいでになる…。一体どういうお方なのでございましょう」
そうなのだ。
将軍のお手付きになるのが嫌で抜け出した大奥だったはずが、いま、ユーリは再びその屋根の下にいた。
しかもハディの局に、今度こそ逃げられませんよ、と睨みを効かされてしまっている。
…まったく冗談じゃないわよ。
日本橋でラム衛門から助けてもらったのはよかったけど、まさか上様だとは思わなかった。
――逃げなくちゃ。
あたしはあの時、とっさにそう思った。
いま逃げないと大奥から脱走したことのお咎めを受けてしまう。
具合よく、将軍を側近たちが囲んでこちらを見ているひとはいない。
いまだ、と思ったその瞬間、髪の長いお侍さんに見つかってしまった。
「これ、娘。どこへ参るのだ」
目が細いくせによく見ているものだ。
視界は良好なのだろうか?
しかも、あたしはこのお侍さんに見覚えがあった。
確か老中の筆頭、イルさまではないだろうか。
「そなたはこれより上さまのお付きとなられる。心して励むように」
正直言って、こんなことをこんな道の真中で言われても困ったけど、相手は老中だ。頷くより他はない。
「お城の場所は判っておるな。ならば明日の朝、身の回りのものを整理してやって来るがいい。
されど荷物と言っても持参するものはなくてかまわぬ。日常に必要なものは当方が用意いたすよってに」
老中イルさまは淡々と、なんの節もなく言う。歌を歌わせたら大江戸でこのお方の右に出るものはいないと聞いたことがあるけど、この口調からはそんなこと想像できない。
でも、しめたぞ。朝に行けばいいんだったら、夜のうちに逃げ出せばいいんじゃない。
「はい、判りました」
あたしは満面の笑みで答えた。
「ただし、」
イルさまが続ける。細い目をさらに細くして。
「この者を共に付けるゆえ、明日の朝、共に参られるよう」
あたしは思わず顔がこわばってしまった。つまりは見張りってわけだ。
あたしは結局、イルさまよりもさらに目の細い側人を付けられて、逃げることもかなわず大奥に逆戻りしたのだった。
「ところで…」
あたしはどうしても確かめたい事があった。
どうしてあのとき、日本橋に上さまがいたんだろうか?
あたしは、ハディの局の機嫌を見計らいつつ、訊かずにはいられなかった。
「上さまが日本橋にいらしたと?」
「はい」
「…視察かなにかでございましょう。あなたはそのようなことをお気になさらず、上さま一途に専念されればよろしい」
そのとき、ハディの局の顔色がさっと変わった。
…なんか絶対に隠してるよね。
あたしは一度脱走の前科があるとかで、上さまのお手がつく前に修行を受けることになった。
そりゃ、しかたないよね。事実だもん。
…でも、ここまで来て、あたしはずいぶんと気持ちが変わっているのに気が付いていた。
いまでも、上さまのお手付きになることに対しては嫌なところもあるけど、前ほどではなかった。
日本橋で助けてもらったから?
自分でもよく判らないけど、なんていうか…その…
――上さまってもっと遠い存在だと思ってた。
御台さまのお許にいらっしゃるときは、威厳と誇りがすごくて、とてもじゃないけど近寄れない存在だった。
それは今でも変わらないはずだ。
でも、日本橋で助けてもらって、あんなに気安く町中に現れた上さまに、あたしはどこか親近感を感じたの。
上さまって、そんなにお堅い人じゃないのかも…って。
修行という名目で始まったあたしの側室教育は、お茶、お花、大奥での作法、回廊の歩き方、そんなことばかりだった。
そんなことは中臈のときにもやっていた。
側室って中臈と大して変わりないのかも。
そういえば中臈の中にもお手つきは何人もいたけど、あたしは彼女たちと違い部屋を与えられるようだ。
つまり、側室という形になるのだ。
ここでいうお手つき中臈とは、中臈であって側室として認められていない女性たちで、後の記録にも将軍のお手つきと記されるに足らない女性たちを指す。
――どうしてあたしだけ、部屋を貰うんだろう?
あたしはぼんやりと沈んでいく陽を見ながらそう思った。ちょうどいま、この本丸から夕暮れが見える。
あたしはほのかな思いが湧きあがってくるのを感じていた。
もしかしたら、上さまはあたしを探しに日本橋に来てくれたんじゃないか…と。
もしそうだったら、…遊びじゃないってことだよね?
あたしは思わず両頬を手で覆った。
夕暮れの赤い光に染まって、世界が赤く見える。
きっと、あたしの頬も赤いんだろうな。それは、夕日のせいだけじゃないだろうけど…
「…では上さまは…」
ハディのお局さま(一度、御年寄さまと呼んだらはたかれた)の声だった。
あたしは、お局さまに今日の終いの挨拶をしようと長局のお局さまの部屋の前まできたところだった。
「…また…らしいのよ」
あれは双子のお局さまの声だ。どちらか判らないけど。
「それでユーリの中臈を見つけたのね。まったく…」
なんのことだろう? よく聞こえない…
「――まったく、上さまもいつまでたっても、町へ女探しに出るんだから」
女、探し!?
女探しですって!?
「いまのご側室のなかでも何人かは町で…」
――じゃあ…じゃあ、あたしを見つけてくれたのも偶然ってこと…!?
「一度会った女は忘れないのが上さまの特技と言うかなんというか…ユーリの中臈のこともきっと覚えてらしたに違いないわ」
あの声は双子のどちらの声か、すでにそんなことはどうでもよくなっていた。
そのあとどうやって部屋まで帰ったのか覚えていない。
側室になるまでの間、あたしは以前の自分の部屋をあてがわれていた。
でも、そこまでの行きなれた道も、あたしは覚えていなかった。
――偶然の出会いだったのか。
そうだよね、一度厠の前で会ったきりだもの。
わざわざ市中まで追いかけてきてくれるはずがないよね。
あたしは蒲団に思うまま泣きついた。枕に顔をうずめるには、あまりにも固くて高すぎたからだ。
…認めたくないけど、あたしは上さまを好きになってるんだ。
そうだよ、認めちゃだめ。だってそうだよね。あたしなんか上さまを好きになったって身分違いだもの。
召されたっていうのも、女好きの上さまの気まぐれでしかないんだ。
日本橋であったのも、偶然で…
――運命なんかじゃない。
あたしは必至に自分に言い聞かせていた。
でも、後から後から涙があふれて、止まらなかった。
頭が重い。夕べ泣きすぎたせいだろう。
でも、今日はお城上げての花見の祝いがあって、大奥中の侍女は出ないとならない。
この催しは、市中の食べ物屋が軒を連ねて、将軍が花見の休息に団子を食べたりお茶を飲んだりしてまわるものなのだけれど、実際に食べ物を扱うのは侍女たちだ。
本丸の庭中にいまが盛りの花が綺麗に咲き誇って、そこに屋台がいくつも並ぶ。
その屋台を仕切るのはきらびやかな衣装を着けた女性たち。
…こんな沈んだ気持ちでなければ、心から楽しめたはずなのに。
去年まで、あたしはこの祭りが大好きだった。
あたしはいつも屋台を任されていて、お店から届いたおまんじゅうや羊羹をいつ上さまが望まれてもいいように用意しておいて、あまったら懐にしまい、あとで同輩とこっそり食べたりした。
いまとあのときと、どっちが幸せなのだろう?
あたしは上さまと御台さまを先頭にした行列の中ほどに付き従いながら、ぼんやりと考えていた。
日本橋に帰ろうかな。おとっつあんに話せば、見合いのひとつくらい世話してくれるだろう。
お城に戻る前夜、実家に帰って事の次第を話したあたしの手を握って、涙ながらに背を叩いて励ましてくれたおとっつあんだった。
おとっつあんに会いたい。おかっつあんに会いたい。
やばい、泣けてきた。
涙を人に見せるのは、江戸の女じゃない。
あたしは、涙がこぼれないようにきっと顔を上げた。
そのときだった。上さまがいらっしゃる先頭のほうが急に騒がしくなったのは。
「なにがあったの?」
あたしのまわりにいる侍女たちが騒ぎ始める。
「まあ、ユーリの中臈、ここにいらしたのですか」
ハディのお局さまだった。
「なにがあったんですか?」
「上さまのお鷹が逃げ出したのです。いまから城のもの全員で探すこととなりました。あなたたちも探してください」
「鷹が!?」
侍女たちが騒ぎ出した。
「鷹など恐ろしいもの、わたしたちに探せと命じられるのですか」
「わたしたちをなんだとお思いなのでしょう」
「いくら御年寄さまの仰せとはいえ、鷹を探せなどご無体な…」
皆、ハディのお局さまに食い寄っている。
大奥で将軍の寵を得るか得ないかの女護ヶ島暮らしの侍女たちには、鷹など恐ろしい存在なのだ。
「そのお鷹はどちらへ?」
あたしは打ち掛けの裾をから揚げながら、お局さまに尋ねた。
「ユーリの中臈、いかがなさるおつもりです?」
「あたしも探します。どちらへ行ったんです?」
あたしは小さいころ、いつも木登りしたり川で泳いだりしてた。鷹だって、おとっつあんの狩猟について行ったときに何度も見ている。
鷹狩は将軍家だけのものだったから出来なかったけど、狩猟の好きなおとっつあんに指笛を習ったことがある。
鳥を操れる指笛だった。
あたしは庭の茂みのさらに奥へ入っていった。
鬱蒼としてて薄気味悪いから、皆あまり近寄らないところだった。
あたしは口に指を当てて軽く息を吐いた。
高い音が林のなかに響く。
――何も応えない。
もう一度鳴らしたとき、茂みの向こうが揺れた。
鷹じゃない。もっと大きなものだ。こちらに近寄ってくるみたい。
何…? まさか熊?
あたしは急に恐ろしくなって茂みに身を隠した。
でも、何か≠ヘどんどん近寄ってくる。
落ち着いて、と口の中で繰り返したけど、それと裏腹に心臓は大きく脈打っていた。
そして、茂みを掻き分ける音はますます近寄ってきて、ついにあたしの目の前にそれは現れた。
「……!!」
あたしは口が利けなかった。目だって、大きく見開いていたに違いない。
「そなた、このようなところで何をいたしておる」
「…………」
「このあたりで笛の音のようなものを聞いたが…そなたは耳にしたか?」
それは日本橋で見たひとだった。大奥で御台さまとご一緒に上座にならばれたひとだった。あのとき、厠から出てきたあのひとだった。
「上…さま」
あたしは口の中でその言葉を転がしたけど、声にはならなかった。
続く
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