カナリア


「かあさま、まだお休みなの?」
 息子が小さな手で服の裾を握りしめるのを、カイルは沈んだ気持ちで見返した。
「ああ、まだ調子が良くないから」
「じゃあ、 今日もいい子にするね」
 幼いながらも、後宮内の暗い雰囲気を読みとっているのだろう、無理に母に会いたいとは言わない。
 カイルはたまらず小さな身体を抱き上げる。
「医師が帰ったら、会えるかどうか聞いてみよう」
「いい、ボクにいさまと遊ぶから」
 我慢すれば、母の病が軽くなるとでも思っているのだろうか。真剣に首を振る。
 上の息子は、無言で父子を見上げている。
「そうか、ピアもデイルもいい子だな」
 子ども達の前で深刻な顔はしたくはなかった。
 けれど、幼い兄弟の母親、カイルにとってはなにものにも代え難い最愛の妃であるユーリ・イシュタルは長らく病の床にある。
 やがては公式行事に姿を見せぬ皇妃に、その不調が帝国じゅうに知れ渡るのも時間の問題だった。
「とおさま?」
 大人びた表情の、デイルが弟の指を握りしめて訊ねる。
「ああ、なんでもない。ピアを頼んだぞ、デイル」
 子どもにすら気遣いをさせるようになるとは。
 唇を噛みしめながら、傅育役に連れられて行く幼い兄弟を見送った。


 明かりを落とした室内には、熱の気配が満ちている。
 息を殺すように、寝台に近づく。 
 ユーリが、浅い呼吸を繰り返しながら眠っている。
 控える医師を振り返ると、ゆっくり頭を振った。
 病状に変わりはないと言うことか。
「ユーリ」
 ささやく。
 眠った顔が、かすかにしかめられた。


「かあさまに、小鳥を見せて上げるの」
 さも良いことを思いついたとばかり、デイルが駆け寄ってくる。
「とっても綺麗な声だから、きっと元気になるよ」
 弟のように、夜に母を求めて泣いたりはしない。けれど、小さな胸がどれほどの不安に押し潰されそうになっているのか、必死の瞳の色に読みとれる。
「小鳥とは・・・アッシリアからの鳥か?」
 いくつかの贈り物の中に、東方からの船に乗せられていたという緑色の美しい羽根を持つ小さな鳥がいた。
 せめてもの慰めにと、カイルはそれを子ども達に与えた。
 兄弟は歓声を上げ、一緒に世話をすると約束した。
「そう、あの鳥!」
 金の細工で籠を作らせた。極上の果実を与えられながら、小さな鳥はさえずった。
 その声は、暗い後宮内に、ようやく小さな明かりを灯していた。
 息を潜めていたような皇子達が、笑い声を上げる。
「名前は・・つけたのか?」
 不意にデイルの顔が曇った。
「・・・」
「なんだ?」
 聞き取れない小声に、カイルは身をかがめて顔をちかづける。
「・・・かあさまに・・つけてもらうの・・」
 語尾は涙混じりだった。
 カイルは息子を抱きしめた。  



 豪奢な帳の内で、この国の正妃は眠っている。
 付き添った女官が、心細やかに額を冷やす布を換え、にじんだ汗を拭う。
 翳りを帯びた肌を見下ろしながら、カイルは重い息を吐いた。
 ときおり、かすかに開いた唇から苦しげな吐息が漏れる。
 艶のある前髪に指をからませる。
「ん・・」
 ユーリのまぶたが、震えた。
「・・・カイル?」
「・・起こしたか?」
「・・ううん・・」
 焦点の合わない目が、カイルの顔のあたりをさまよった。
「・・・あの子たちは?」
「元気でやっているよ」
 膝を着き、ユーリの手を両手で握りしめる。
「珍しい鳥が手に入ったのでな・・今はそれに夢中だ」
 ユーリの唇がよわよわしいほほえみを形作った。
「・・鳥?」
 カイルはうなずく。熱に潤んだままの黒い瞳をのぞき込む。
「・・美しい緑色の羽根の鳥だ。鈴が転がるような声で鳴く」
 不自然に熱い手を、しっかりと包み込み、細い指の形を確かめる。
「小さな宝石のような鳥だ」
「・・・それ・・カナリア・・・かな?」
「カナリア?」
 枕の中に、ユーリの頭が沈み込んだ。わずかな会話にも疲れたのだろう。
「・・南に棲む鳥だよ・・あったかい国に・・」
 とろとろと熱の眠りに引き込まれるように、ユーリの語尾がかすれる。
 そっと上掛けを持ち上げると、名残惜しい指先をその中に押し込んでやる。
 胸の当たりを軽く叩く。
「疲れたか?すまなかったな・・・眠るといい」
 カイルの声を聞きながら、ユーリが再び眠りの中へおちてゆく。


「今年の冬は厳しくなるな」
 冷気に澄んだ空を見上げながら、カイルはつぶやく。
「・・陛下?」
 いぶかしげなキックリになんでもないと頭を振り、歩き始める。
 冬は毎年と同じようにやって来る。それを厳しいと感じるのは、最愛のものが病の床にあるからだ。
 風が、冷たい。
 さらう突風から逃れるように細い身体を寄せてきた姿は、いまはそばにない。
 身震いをして、マントを巻き付けたときに、慌ただしい足音がした。
 身構えたのは、それが後宮の方角からだったからだ。
「なにごとだ」
 不安を押し殺すように、低い声でたずねる。
 後宮に仕える侍従の一人が、平伏する。
「申し上げます、陛下には至急殿下がたのところへ」
 聞き終わるまでもなく、カイルは走り出していた。



 皇太子の部屋には、後宮の東側の部屋があてられている。
 扉の前に、当惑したような女官達の姿があった。
「どうした?」
 駆け付けた皇帝の姿に、慌てて一同が伏せる。
「・・・殿下が・・」
 扉の向こうから、泣き声が聞こえた。
「ピア?」
 手をかけても、扉は動かない。カイルは眉をひそめた。
「デイル、ピア、私だ。ここを開けなさい」
 扉の向こうになにかが積み上げてあったのか、がたごとと音がした。
 ようやく、細く扉が開く。
 立ち上がった女官達を制すると、カイルは室内に踏み込んだ。
 窓際に、金色の鳥かごがある。
「とうさま・・」
 床に座り込んだピアが、涙でくしゃくしゃになった顔でカイルを見上げた。
 戸口に立つデイルもしゃくり上げている。
 乱雑に積み上げられた椅子が、危うい均衡で傾いでいる。
「いったい、どうした?」
「死んじゃったの」
 死、という言葉にどきりとする。
 ピアが差し出した小さな両手の上には、緑色の小鳥が横たわっていた。
「昨日はお歌を歌ってたの」
「今朝起きたら、か?」
 あえてその言葉を口にすまいと、カイルはデイルを振り返った。
 デイルはこっくりとうなずいた。
「・・・ボクたち、きちんと世話をしなかったのかな?」
 鳥かごの中は、塵一つなく清められている。
 水入れの中の澄んだ水と、添えられたみずみずしい葉から、鳥にかけられた愛情の深さが見て取れた。
「いや、おまえたちのせいではない」
 ユーリは、この鳥は南の国にすむと言った。
「おそらく、気候が合わなかったのだろう」
 ハットウサはすでに深い雪で覆われている。いくら室内で火を燃やすとはいえ、朝晩の冷え込みは南方生まれの鳥にはきつかったにちがいない。
「気候って・・・」
「この鳥は、暖かいところで生まれたんだよ」
 4つの潤んだ瞳がカイルを見上げた。
「じゃあ、ヒッタイトに来なければ、死なずにすんだの?」
 また、カイルの胸でなにかがどきりと動いた。
「それはどうかな・・生まれた国でも、危険がないわけじゃない」
 二人の子どもを腕に抱き寄せる。
「お墓を作ってやるんだな。おまえ達に大切にされて、鳥も幸せだっただろう」
 見上げれば、金の鳥かごが光を反射している。
「でも、鳥さんがいないとかあさまが」
「かあさまには、この国一の医者がついている」
 だがその医師達がついてさえ、皇妃の病は一向に快方へとむかわない。
 子ども達にも、それは分かっているのか。
 幼い二人が信じたのは、珍しい鳥のもたらす奇跡。
 小さな胸が祈るあまり作り出した幻想だった。
 だからこそ、二人は鳥の死を隠そうとしたのだろう。
 ピアの細い泣き声に、デイルの嗚咽が重なった。
 カイルは、光に目を奪われながら、子ども達の背中をさすり続けた。


「・・・かわいそうね」
 ユーリがぽつりと言った。
 病をうつすことを怖れて、ここしばらく子ども達には会わせていない。
 ユーリの瞳が潤んだ。
 カイルはその手のひらを片手で握りしめたまま、指でユーリの頬をなぞった。
 また、いくらか痩せた気がする。
「おまえに歌を聴かせたがっていたんだがな・・・」
 ユーリがはかないほほえみを浮かべた。
「聴きたかったな」
「デイルが・・」
 胸の中に居座るかたまりを飲み込もうとするように、カイルは乾いた唇を開いた。
「ヒッタイトに来なければ、鳥にとって良かったと言うんだ」
「・・・そう・・・」
 ユーリの手を、きつく握りしめる。
「本当に、そう思うか?」
「カイル?」
 痛みに、かすかにユーリが顔をしかめた。
「・・・生まれた国にいた方が、幸せだったと思うか?」
 声に込められた真剣さに、ユーリは目を見開いた。
「・・・・どういう、意味?」
 言葉は、止められなかった。
「おまえも、そうなのか?ここにいても、私はおまえの病を治してやれない・・おまえは、おまえの生まれた国にいた方が幸せだったのか?私がおまえに与えたと思っていたものは、ただの金の鳥かごにすぎないのか?」
 押し殺したはずの声が、悲鳴のようだと思った。ただでさえ弱っているユーリに、感情をぶつけるような仕打ちをしている。
 そう、思った。
 ユーリがまぶたを閉じた。

 カイルは呼吸を忘れる。
 白く浮かぶその顔が、神々しいと感じた。
 息を止めて見守るカイルに、そっと言葉がかけられる。
「・・・あたしは」
 目尻から盛り上がった涙が、頬を滑り落ちた。
「カイルと会えて、幸せ。カイルと一緒にいれて幸せ・・・」
 細い腕がそっと伸ばされ、カイルの前髪をさぐった。
「デイルやピアがいて、幸せ・・・もしみんながいないなら・・きっと生きていけない」
 たまらずに、頬をすり寄せる。涙の筋に唇を押しあてる。
「本当に?」
「本当に」
 ユーリの腕がカイルを抱いた。
「こんなに愛してるのに・・ほかに生きる場所なんて考えられない」
 カイルは瞳を閉じた。ユーリのぬくもりと、ひそやかな鼓動が伝わってくる。
「・・私も、愛しているよ」
 それでも、固くまぶたを閉じたまま横たわる小さな姿が忘れられない。


「名前を、つけてあげて」
 夢の中にいるように、ユーリがささやいた。
「名前もないまま逝くなんて、寂しすぎるから」
「子ども達は、おまえにつけてもらうのだと言っていた」
 金の鳥かごの中で飛び回る、美しい緑色の小さな鳥。
 ユーリは首をかしげる。
「どんなのがいいかな・・・カナリアだから・・カナ」
 ちょっと単純すぎるかと、笑った。
 それが、久しぶりに耳にした笑い声なのだと、カイルは気づいた。
「カナ・・・」
「名前があれば、忘れないでしょう?」
 名前を口にすれば、いつでもさえずる姿が思い浮かぶのだと、ユーリは言う。
 カイルはもう一度頬に口づける。
「はやく良くなってくれ、ユーリ」
 常にそばで抱きしめていないと、不安になる。
「私と、子ども達のために」
 一日の早く元のようにその輝きで、皆を照らして欲しい。
 わき上がる不安を、笑顔でうち消して欲しい。
「・・・あ・・」
 ユーリが声を上げた。
 窓の外から、澄んだ音が響いてくる。
「・・草笛?」
 雪の中に身を寄せて立つ幼い兄弟の姿が思い浮かぶ。
 デイルの頬は、寒風に真っ赤になっているだろう。とがらせた唇に、細い草の葉を押しあてながら必死になって笛を奏でる姿が、カイルには見て取れる。

 とっても綺麗な声だから、きっと元気になるね?

「・・あれは、カナリアだよ」
 強く、抱きしめる。


                  おわり 

    

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