大奥に暮らして

                       by千代子さん


「…よもやあの音は、そなたか?」
 あたしは、きっとぽかんと口を開けたまま上さまを見上げていたんだと思う。
 しかも、口に指をくわえたままで。
「そなたは指笛を使えるのか」
「は、はい」
「どこで習ったのだ?」
「ち、父が狩猟を好みまして…幼いころより側についておりましたもので…その…」
「そのほう、実家はたしか日本橋の八百屋ではなかったか?」
「そうですが、その…」
――…あれ?
 どうして上さまがあたしの家が八百屋だとご存知なの?
「あの…?」
 状況がいまいちの見込めないまま、上さまはあたしの手をいきなり引いて、茂みから出た。
「そちも参れ、その指笛、充分に使えよう」
 茂みから出たとたん、あたしの、正確には上さまの周りを護衛の侍が何人も取り巻いた。
 その中には老中イルさまもいた。
「鷹はどこへ行ったのだ?」
 よほど大切な鷹なのだろうか? 上さまはしきりに気にしている。
「北の丸の茂みへ向かったと、警備が申しておりますが」
「北の丸か、本丸からではちと遠いな」
「お輿のものを用意いたしましょうか」
「…騎馬でよい。駒馬を用意いたせ」
 すぐに月毛の馬が引き出されてきた。
 上さまはひらりとそれに飛び乗ると、あたしを馬上から引き上げ、馬の背に乗せた。
「馬は初めてか?」
「い、いえ」
「わしにしっかりとしがみついておれ。飛ばすゆえ、振り落とされぬよう心せよ」
 し、しがみつくですって!? だ、だだだ、だって上さまに!?
 あたしは躊躇したけど、そんなこと言っていられなくなってしまった。
 馬の脇腹をける音が聞こえたと思ったら、もうそこは風の中だった。
 木々がどんどん遠くなり、本丸の甍がどんどん小さくなった。
 あ、あれはお城の天守閣、と仰ぎ見たのもつかの間、あたしは上さまにしっかりしがみついて、北の丸の木立の中に抱き下ろされていた。
「なかなかよい度胸をしておるな。それでこそ武家に仕えようという娘ぞ」
 上さまはどこか嬉しそうだった。対してあたしは、上さまに抱き上げられて恥ずかしいのとどこか嬉しいのとで、耳まで熱を持ってどうしようもない。
 空は高く澄んで、どこまでも青かった。
 上さまは伸びをする仕草をして、おもむろに、
「鷹は、どこへいったのだろうな」
と呟いたが、それは心配していると言うよりも、居所を知っていてその場所をこちらから見渡せるかということを楽しんでいる響きに聞こえた。
「あの、上さま……」
 あたしは、乱れたうちかけの裾を手で払いながら、恐る恐る訊ねた。
「恐れながら…申し上げます。あの…日本橋でお助けくださったのは…」
と、その先は鼠に齧られてしまったわけでもないのに、口から出て行かなかった。
――あれは、偶然でございますか、それとも、あたしを探しに来てくれたのですか?
 うつむいてだんまりしてしまったあたしを不信がってか、上さまは一歩近寄ってあたしの崩れた髷を直してくれた。そしてそうしながら、
「厠で初めてそなたを見初めたときから、心に花が咲いてな、幾日水を与えずとも枯れぬのだ。
…そなた、水をやってくれるか」
「水……?」
「そうだ」
 そう聞いて、ふわりと伽羅の香りに鼻腔をくすぐられた、と思ったとたん、あたしは訳の判らないまま上さまの腕の中に引き寄せられていた。
「上さま…!」
「日本橋で会ったのは偶然などではない。…我が目で首実検したおなごを欲しいと思うは当然であろう」
「あ、あの…」
 あたしは恥ずかしさのあまり、何も考えられなかった。
 ただ、上さまの想像していたよりも強くて逞しそうな腕の力に、半ばくらくらしながら、八百屋のしがない娘の上に降りかかった栄光に酔っている、そんな感があった。

 そのとき、老中イルさまの声が遠くから聞こえて、あたしは一気に現実に引き戻された。
 イルさまは、結べばいいのに長い髪を風に揺らしながら、騎馬でやってくる。
「上さま、鷹はすでに捕獲しましたゆえ、どうぞ本丸へお戻りのほどを」
 はらりと馬から下りるのにも長い髪は邪魔なようで、わざわざ背中に寄せるのはわずらわしくないのかしら、と思っていると、急に身体が空に浮く感があって、あれれ、と思う間にあたしは再び上さまと同じ馬の上にいた。

 馬はお城の庭を駆け巡り、身体を預けているあたしは、時に引き寄せられ、持ち上げられ、気が付くと手綱にしっかりと捕まっていた。
 怖さと緊張で目を固くつむり、身体を固くしていたけれど、なんとなく引き寄せられるような、それでいて暖かなものに包まれたのを何度も感じたものの、ふっと周りの風がおさまり、あたしは高価な香を焚き染めたうちかけをまとって、春の桜が舞う庭にいた。
 庭には五色の瑞雲が錦をなして春のめでたさを祝福していて、あたしは誰かに名前を呼ばれた気がして振り返った。


「…………」
 ぱさり、と髪が布団へ落ちる音を聞いて、あたしは目がさめた。
 ここは日の光など差し込まぬ大奥、それも自分の半身に暖かな感触のある、上さまと同じ褥の中、上さまの腕の中と気が付くと、昨夜の情事が生き生きと思い出される。
 馬の背に乗っていた、と夢に見て錯覚していたけれど、あれは昨夜の上さまの逞しい身体と馬とを混合させてしまっていたらしく、あの不安定な身体の置き所感は、上さまの身体で嫌と言うほど知らされたものだったようだ。
 半身で触れる上さまの体温がそのままあたしに伝わってきて、耳を澄ませば鼓動も伝わってくるみたい。
 あたしは恥ずかしさのあまり、向き合った形で眠っていた上さまに背を向けた。
 穴があれば入りたいというのはこのことかと思いながら、ひとつひとつ上さまの手付き、指の動きひとつまで思い出せば、身体の芯が疼いてくる。
 まだ、自分でも信じられないところがあって、さっきの夢のような、暖かな幻の出来事ではなかったのかしら、と思うけれど、ただひとつ、いままで体験したことのない身体の芯の痛みだけが夕べのことが現実であったことを教えてくれていた。

 あたしは、上さまの頬にそっとふれた。

 そういえば夕べ、お臍のあたりに唇を寄せた上さまのまつげが、かすかに肌に当たってくすぐったかったっけ。
 しばらく見入ってしまったそのまつげがぴくりと動いて、ゆっくりとその瞳が開かれた。
 あたしは思わず顔を伏せてしまった。だってあまりにも恥ずかしいんだもの。
「…ユーリ」
 さも可笑しそうに笑いながら、上さまはあたしの腕を捕らえ、難なく引き上げたから、あたしはそのまま上さまの胸に引き寄せられた。
「上…さま…っっ!!」
 上さまはやっぱり可笑しそうに、でもとても優しく笑いながら、あたしの耳もとに唇を寄せてそっと囁いた。
「昨夜は可愛かったな」
 あたしは耳まで真っ赤になるのが判った。どうしよう、そんなことを言われたら、なんて言ったらいいのかわからないじゃない!!
 上さまはまだ笑いながら、
「また城を脱走するか? 今度は、ふたりで」
と、あたしの黒い髪をなでてくれた。
…お寝梳き代わりかしら? お寝梳きは大名の夫人や姫君の朝の行事の一つである。
 寝たまま髪を梳いて、それからお手水どころや朝食を済ませるのだけれど、あたしは姫君でもないところからやったことはなかった。
「上さまはいつもお城を抜け出されますの?」
 そういえば、日本橋でもお会いしましたね、と言うと、上さまは笑って、
「城下を知らずに江戸を統治できるか?」
と言いながら、あたしの腿のあたりに手を伸ばした。
「上さま!?」
「そなたを知らずに、これからどうしろと言うのだ?」

 上さまはあたしを絹布団の上にそっと横たわらせてくれた。そのときあたしはどういうわけか、ずいぶんと前からこうなることを知っていたような気分だった。
 頭がくらくらする。上さまの手が、あたしの身体中を這っていく。
 どうしよう…もう、なにも考えられない…
 溜まりかねて身体をくねらせるあたしに、上さまが言った。
「城を出るときは、老中に気をつけろよ」


 遠くなっていく意識のなかで、老中イルさまの顔…ではなく、長い髪が浮かんだ。
 やっぱりあの髪は切るべきなんじゃないかしら、と思いながら、あたしは頭のなかで上さまとお城を抜け出すのを思い描いていた。



                  (終わり)

      

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