魚心あれば水心

                    by千代子さん

 ときの八代将軍カイル・ムルシリことムルシリ田カイル之介は、江戸市中を歩くことを日課としていた。
 神君以来からの譜代老中バーニ家のイルに捕まったときはしぶしぶながら諦めもするが、
「これも将軍の勤め」
と言って、お目見えや折々の儀式や催し意外の、特にこれと言って予定のないときには必ず市内に出ていた。


 よく晴れた秋の日、老中イルの目を見澄まして、今日も市中をぶらぶらとしていたら、カイルはふと妙な笑い声を聞いた。
 耳を澄ませばそれは男の忍び笑いに聞こえ、若い娘の上ずった声も聞こえてくる。
 確かここは最近流行りの浮世草子をあつかう本屋ではなかったか、と思い、墨痕鮮やかに掲げられた看板を見上げると、
『代官屋敷』
とある。
 また不思議な名前の本屋だと思いながら、暖簾を分けておとなったが、返事はない。
 おや、と思い、わき道を伝って裏へ回ってみると、かすかに扉が開かれていて、先ほどの忍びやかな声が聞こえてきた。

「まぁ、お代官さまもお人が悪い」
 若い女は十代か二十代か、黒髪を町人風に後ろで一つにまとめ、赤い頬をした健康そうな娘である。
「もそっと近う参らぬか」
お代官さま≠ニ呼ばれているのは、この店の親爺か、しかし親爺にしてはまだ年のころはカイルと変わらないように見える。
「それでは話が遠い。もそっと近う」
「お代官さま、話というのは?」
「まぁ、とりあえず、ささ、一献」
「あら、このような昼間から、いかがなさるおつもりでございます」
「よいではないか」
「いけません、お代官さま」
「ほら、魚心あれば水心と言うだろう」
「それは、よしなに申し上げたはず」
「よいではないか、よいではないか」
「ああ、お代官さま!!」

「ふむ、市中では昼間から…」
 一部始終を盗み聞きしたカイルは、とたんに踵を返して城へ戻った。


 戻るとすぐに側室ユーリの中臈を召した。
 ユーリは最近側室に上げた娘で、カイルの一の寵愛を受ける中臈だった。
「上さま、いかが遊ばされました」
 大奥の一室で、カイルはユーリの服装に一つ一つ目を当てながら、すくっと立つと、虎の襖をはらりと開き、ユーリを誘った。
 ユーリはカイルに続いて部屋に入ったとたん、目を見張った。
 部屋には夜具がのべられてあり、まだ昼間なのに、と驚きを隠せないまま身構えて問うた。
「上さま、これはいったい……?」
「ほれ、魚心あれば水心と言うであろう」
 襖を閉め、カイルはユーリのうちかけを落とした。
「あれ、おやめください、ご無体な」
「よいではないか、よいではないか」
 カイルはユーリの帯をしゅるしゅるしゅる〜と引き抜いた。
 もちろんユーリは成す術なく独楽回し状態。



 上さまはその後しばらく代官ごっこ≠試されたと言う。



                (おわり)

     

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