宵風

               by 宵花(酔いどれバナナさん)


その日の朝を、生涯忘れない、とカイルは思う。

 産屋から、赤子のこの世に生を受けた証の泣き声が聞こえたとき、我知らずに頬を伝った熱い涙のわけは、父親になった者しか判るまい、いや、もしかしたらこの涙の理由は誰も判らないのではないかと思えば、ユーリの初めの妊娠から流産、そして今回の妊娠出産までの長かったことが思い返される。


 愛しいユーリが身体の変調を訴えたのは、婚儀も済んだばかりの春の日のことだった。

 どこか気分が優れず、食べるものも戻してしまう、と聞かされたとき、とっさに婚儀の疲れだろうと思った自分の迂闊さは、その後幾度思い返しても胸に苦い味を覚えるが、懐妊と知ったときの胸のそこから湧き上がる嬉々とした喜びは、いまもなお胸のうちに残っている。


「カイル、あたし、この子はかならず元気に産んでみせるね」
 ユーリの膝に身体を預け、腹に頬を寄せて必死に腹の中の子の存在を知ろうとするカイルに、ユーリは母親になる喜びと興奮の相混ざっていささか蒸気した赤い頬でそう言った。

 ユーリが初めて妊娠したとき、ちょうどエジプトとの戦争を控えており、無事に子を産ませるために避難させたつもりが、結局流産の憂い目にあわせたことに対し、それとは言わずともカイル自身少なからず負い目を感じており、それから最初の妊娠の事実だったものだから、カイルの喜びもひとしおのものがあった。

 夜、眠りにつく前のひととき、カイルはユーリの薄寝着の上から、腹に耳を近寄せて胎動を聞こうとするたびに、
「まだ判んないよ」
とユーリに笑われていたのも、夏の暑さを過ぎる頃には弱々しくも感じ取れるようになり、風呂で湯を使っていたりすると、突然ユーリの腹がぽこりと盛り上がり、それが多いときには身体を洗うことも忘れるほど、ついつい見とれてしまうことだってある。
「ねぇ、この子やっぱり男の子かな? だってこんなに元気なんだもん」
 暖かな湯につかり、カイルの腕の中で心底安心しているユーリは、膨らんだ腹を撫でながら言う。
「女でもお前みたいなジャジャ馬もいるからな。第一母子なんだ、充分似ていると考えても間違いなかろう?」
「しつれいね、カイルったら」
 ユーリは少し唇を尖らせ、こちらを振り返ってから、
「お父さまに似て、激しい≠フかもしれないものね」
と腹の子に語りかけた。
 カイルがきょとんとした目をすると、ユーリはいたずらっ子のようににたり、と笑い、カイルのほうへ振り返って、もう一度笑ってみせた。
「ユーリ」
 カイルもすぐにいたずらっぽい目を返すと、ユーリはそのまま、カイルの唇に引き寄せられるかのようにキスをした。
「あ」
 カイルの首筋にまわそうとした手が、ふいに腹へ動く。
「赤ちゃん…また動いた」
「こいつ、まさか親の恋路を邪魔しようって言うんじゃないだろうな?」
 ユーリが、可笑しくてたまらない、と笑う。
「まさか、パパとママが愛し合ったから、生まれてくるのに」


 湯殿から部屋に戻ると、ユーリは無理をしないためにと、横になるようにしていた。
 その間、カイルは遣り残した政務やら、指図せねばならない軍事のことなど行っていたが、今日は思い立って奥医師を召した。
 ユーリの腹も当然、だいぶ大きくなってきているわけで、初期の安定期という時期はカイルもそれなりに耐えなければならなかったが、医師にそれとなく訊ねると、母体に無理をさせなければ、との条件付でならばよい、とのことだった。
 子どものことを思うと堪えなければならないのは判るが、毎夜腹が膨れてゆくのに比例するかのごとく、艶っぽさを増すユーリを見ていれば、理性も限界になってくる。


 カイルは部屋に戻る途中の回廊で、池を渡ってやってくる風を感じた。
 涼やかでいて夏の熱を含んだ風は、カイルの肩まで伸びた髪を揺らし、そしてユーリのいる部屋のほうへ入っていった。
 まるで、カイルを導くかのように流れた風は、そのままユーリの眠る寝台に僅かに掛けられた天幕を揺らす。
「ユーリ?」
 普段なら、部屋へ入ると必ず歓迎の言葉が聞こえるのだが、今日はそれがない。
 いぶかしみながら寝台へ近づくと、規則正しい寝息が聞こえてきた。少し横になるつもりが、寝入ってしまったのだろう。
 残念ながら今日はおあずけだな、と苦笑いを隠しきれずに浮かべながら、上掛けを捲ってユーリの横に身体を添える。
 静かな呼吸を繰り返すユーリの、膨らんだ腹に手をやり、ゆっくりと撫でるがなんの反応も無い。寝ているのだろうか?
「やっぱり、母子だな」
 そっくりだ…。
 こみ上げてくる笑いを堪えながら呟くが、未だ見ぬ我が子を見つめていると、なんとも不思議な気分となってくる。己の半身の中で、己の分身が息づいている…。


 一体どれほどそうしていたのか、気がつくとユーリの身体が幾分冷えている気がする。
「……っちゃダメ……ないで…」
 自分の所為かと思ったがそうではなく、冷や汗からくるものだったようで、ユーリは悪夢を見ているのだろうか、うなされながら伸ばされた手が空を斬る。
「ユーリ?」
 その手を取って名を呼ぶが、目を開ける気配はなく、苦しそうな表情で額にも汗が滲んできている。
「ユーリ、ユーリ!」
 カイルが慌てて上半身を起こし、その頬を軽く叩いてみると、ユーリは荒い息をしながら目を開けたがその焦点は定まってはいない様で、瞳は何も映していない。
「…あ…カイル?」
「わたしが分るか?直ぐに侍医を呼ぶからな?!」
 ユーリのさ迷った瞳が自分を捉えるのを確認すると、カイルは侍医を呼ぶ為に扉の方へ行こうとしたが、ユーリの握り返したその手の為に阻まれる。
「大丈夫。ちょっと…イヤな夢を見ただけだから…」
「夢?」
とは言うものの、ユーリの身体は小刻みに震え、繋いだ手は痛いほど握り締めて汗ばんでいる。


「悪い夢は、人に話すと正夢にはならないそうだ。」

 ユーリを落ち着かせるように、額の汗を拭いながら前髪を流し、再び身体を添えると、そのまま頭を抱き寄せる。目を閉じ、深呼吸を繰り返していたユーリだったが、カイルの鼓動を感じているうちに大分落ち着いてきた様で、
「…散歩をしていたの。カイルとあたしと赤ちゃんの3人で…」
 ぽつり、ぽつりと夢の内容を話し始めた。

「お天気も良くて、風も薫ってて…凄く気持ち良かった」
「近い将来、叶いそうな事だな」
「そうしたら、いつのまにかカイルがいなくなって、赤ちゃんも一人でどんどん先に行っちゃうの」
 その時の心許無さを思い出したのか、ユーリは、いっそうカイルの方へ身体を密着させる。
「追い駆けようとしても体が動かなくて、行っちゃダメって言っても、どんどん離れていって…名前を呼ぼうとしても、呼べないの」
 最後の方は嗚咽が混じって、まるで搾り出すかのような小さな悲鳴だった。
「名は、これから付けるんだ。呼べなくとも、おまえの所為ではない」
「違うの!この子じゃないの」
 ユーリは、自分の腹に手をやりながら首を振って否定するが、腹の子でないとすると…
「あたし達の、もう一人の赤ちゃん。一度も名前すら呼んであげれなかった…。夢の中のあたしは、何故かそれが分ってて…」

 心臓を鷲掴みにされたかの様に、息が苦しくなる。ウガリットのあの夜以来、ユーリは一度も失ってしまった子供の事については触れなかった。もちろん、だからと言って、ユーリが忘れたとは思ってはいなかったが、まさかこのような形で触れるとは思っていなかった。

 今までも、わたしが知らないだけで、こんな風に涙を流していたのだろうか?現実だ
けでなく、夢の中でさえわたしは力になれなかったのか。

「夢の中の子は、どんな風だったんだ?」
 悔しさを噛み締めながら問う。
 少しでも、泣いている心が晴れる様に。その為ならば、何でもしよう。わたしが持つ、全てを与えよう。

だから、独りで泣かないでくれ。


「笑って、手を振ってた」
「そうか…あの子は、笑っていたか」
 慎重に、言葉を選ぶ。
「きっと、今でも笑って、我々を見てくれているのだろうな。
それに、あの子は幸せなんだ」
 言葉の真意を問いただそうと、ユーリは顔を上げようとしたが、カイルが腕を解かないために、その顔を見ることが出来ない。
「こんなにも愛されているのに、幸せでない訳がないだろう?笑っていたのがその証拠だ。あの子は、独りではない。これから生まれてくる子供達と、同じ家族だ。いつも、一緒にいる」
「カイル…」
 上手く伝わっているのだろうか?おまえは独りではないということが。
「きっと、それを言いたくて、夢に現れたのだろう。せっかく笑っているのに、我々が沈んでいては悲しむ。」
「本当に、そうなのかな。ずっと、側にいてくれるのかな。」
「ああ、間違いないさ。その為にも、笑っていないとな。」

「…ありがとう、カイル」

身体を少し離すと、ようやく口の端が上がっている顔を見ることができる。

「その顔が見たかったんだ…。」
 泣き笑いの顔に唇を寄せ、次いで、子供にも口付けをするが、やはりなんの反応もない。
「親孝行な子供だな」
「え?……んっ…」
 湯殿での発言を撤回し、ユーリの唇を味わいながらその身体を組み敷く。
「…ダメだよ、カイル。赤ちゃんがいるのに…」
「親が嬉しいのなら、子も嬉しいに決まっているさ…それに、誘ったのはおまえの方なんだからな」
「さ、誘ってなんか…」
「ない、とは言わせないからな。」
 ユーリは顔を横にずらし、逃れようとするが到底かなうはずも無く、カイルは再び、難無くその唇を奪う事に成功し、最初はされるがままであったユーリも、熱が篭ってくるのを感じると、カイルの広い背中に手を廻し、応え始めた。

 妊娠が判ってから遠ざかっていた情熱が、カイルの唇に触れられるたびに思い出される。
 授乳のために張って膨らんだ胸に唇を寄せ愛撫を繰り返すうち、ふと生暖かなものの流れるのを感じ、カイルははっとして唇を離した。
「…カイル?」
 不信がってユーリはカイルの顔を覗き込もうと目線を下げた。
「これは……?」
 カイルはしばらく理解に苦しんでいたようだが、やがて気がついてユーリの顔をまじまじと見た。
 ユーリも顔を赤く染めながら、
「……もう母乳が出始めてるの。赤ちゃんもまだ生まれてないのに…ヘン、だよね」
と恥ずかしそうにうつむいた。

 自分自身がそれと意識せずとも、身体はだんだんと母親へと変化していくのか、想像も制御も出来ないところで日々変わっていく身体をカイルに見られることは、穴があれば入りたいくらいに恥ずかしいことではあったけれど、その反面で生命を育てるという大業を行っている我が身を、その胎児の父親に知ってもらいたいというのが、ユーリの本音であったろう。

 カイルは恥ずかしそうに、だがとても嬉しそうに頬を赤く染めて、膨らんだ腹を抱えるユーリを愛しく思い、胎児と、それからユーリの唇へキスしてから、腹へ負担をかけないようにユーリを抱きしめた。
「ほらな、ユーリ。お前はもう立派に母親だよ。大丈夫だ。大丈夫だよ」
「…カイル」
 くれないの薔薇の色に頬を染め、ユーリははにかみ笑顔でカイルの背へ腕を回した。
「ママが心配がってちゃダメだよね」
 言うとユーリはカイルの額に自分のそれを当て、
「お医者さまが言ったの? 『再開は大丈夫だ』って?」
と、カイルの目を覗き込んだ。
「え?」
「ふふ、やっぱりね。だってカイル、今日お医者さまを召したでしょう。ハディが言ってたもの。
『陛下はよっぽど皇妃さまのお体がご心配なのですね』って…見られてたみたいよ?」
「…ユーリ」
 少しバツの悪くなったカイルだったが、ユーリの髪のかぐわしさとはだけた肌の暖かさに我を失いかけた頃、耳もとで、
「ほんとうは、あたしもカイルが欲しかったの。だからお医者さまにそれとなく聞こうと思ってたのよ」


 次の朝、カイルは腕にかかる軽い痺れを感じて目がさめた。

 窓から外を見ると、すっきりと澄み渡った青い空が高く、つい最近までの暑さの余波も感じられなかった。
 ああ、そろそろ風の季節だった、と思うと、例年ならばこういう朝は今年の鉄の出荷量など考えるのに、今年に限ってはさすがに我が子のまだ見ぬ顔を思い描いたりしている。
「う…ん…」
つと、ユーリの指が喉のあたりを這って来て、カイルの耳朶に触れた。
「カイル…?」
「起きたか?」
「ん……」
ユーリは軽く伸びをして、カイルの胸に頭を預けた。
「ねぇ、カイル。あたし、夢を見たの」
「夢?」
「そう…赤ちゃんと三人で…王宮の庭を散歩するの……」
 カイルは夕べのユーリの告白を思い出して一瞬どきりとしたが、ユーリが案外にも落ち着いているので背を撫でつつそれとなく次を促すと、ユーリはいとも自然に、
「赤ちゃんね、カイルにそっくりな男の子なの。木陰で三人で涼んで…カイルったら赤ちゃんあやすのに必死になっちゃって。…きっと、明け方に見たんだもん、正夢だね」
と言う。
 その顔には不安のかけらもなく、至って穏やかで幸せそうなのを見ると、カイルも安心して、
「人に話すと正夢にならぬと昨日言ったろう」
とふざけると、これにはユーリもおびえる表情など微塵も見せず、
「大丈夫よ、明け方の夢だもん。正夢だよ」
と言い、ベッドのなかで二人は抱き合いながら笑いあった。


 数週間後、夢が叶う日は刻一刻と近づき、今や、ユーリの腹部は最大限と言っても過言ではないほどにまで膨らんできた。
 だがしかし、それとは逆にユーリの食欲は落ちてきていた。
 奥侍医が、妊婦がなり易い症状の1つだと言うので、それほどの心配はないのだが・・・。


「どうした。やっぱり食欲は無いか?」
 いつもの様に1日の政務を終え、ユーリの部屋へやって来たカイルであったが、未だ残されている夕食を見て、眉をひそめる。
「う〜ん・・・ちょっとずつ食べてるんだけどね。きっと、今だけだよ」
 そんなカイルの心配をよそに、ユーリはホットミルクが入ったカップを、呑気に口に運んでいる。
「そうは言っても、おまえ一人の身体ではないんだ。 何でも良いから、身体に入れるんだ」
と言いながら、カイルはユーリにパンを勧めるが、ユーリは首を振ってそれを断る。
「食べても、肥り過ぎちゃうとダメなんだよ?運動しないと・・・
 ねぇ、明日は一緒に散歩できる?」
 期待を込めて、問い掛ける。

 あの悪夢を見て以来、ユーリは王宮内で散歩する事を日課としており、まるで望んだ夢を1歩1歩踏みしめているかのようだった。
 普段ならカイルも一緒に行くのだが、
「明日も、難しいかもしれんな。」
 ここ数日は政務が立て込んでおり、苦々しい顔で明日の予定を考える。
「そうなの・・・。でも、あたしの分までしてくれてるんだもん。仕方ないね」
 しかし、そう言いいながら項垂れるユーリを見て、勝手に身体が動く。
 ユーリの肩を抱きながら、
「散歩はムリだが・・・運動なら今からでもできるさ」
と、囁く。
 予想外の事に、一瞬ユーリは身体を強張らせたが、
「もう、赤ちゃん寝ちゃってるよ」
と、笑いながら悪戯な目をカイルに向ける。
 それを見たカイルも、同じ視線を返しながら、ユーリの身体を抱き上げて寝室へと移動する。
「今は寝てくれている方が嬉しいな」
 寝台にユーリをそっと降ろすと、まず腹部に頬を寄せる。
「困った父さまね」
 ユーリは、そんなカイルを見て、先が思いやられると言ったように笑うが、カイルの顔が近づくと、静かに目を閉じた。

冷ややいでいた風が熱を含む・・・


 翌朝、カイルを送り出し、いつもと変わらぬ一日がやって来た。
 本日3度目の食事を済ましたユーリは、ハディと共に散歩へと出掛ける。
 後宮の外庭に差し掛かった頃、突然ユーリが立ち止まり、膨らんだ腹を繁々と見つめだした。
「ユーリさま、どうかされましたか?」
 風の季節とはいえ、そろそろ冷気を含み始めた気候の中だ。
 やはり、身体に悪かったのではないかと、ハディは気が気でない。
「うん・・・なんかね、お腹が張ってる感じがするんだけど・・・あ、治った」
「戻りましょう!!直ぐに、奥医師をお呼び致しますからっ!」
 もう大丈夫。と、言おうとしたが、ハディの迫力に押されて、しぶしぶ承知したユーリであったが、自分の部屋へ戻るまでに同じ事が何度か繰り返されると、さすがに不安となってくる。

 しかし、召された奥医師は意外な一言を告げた。
「陣痛でございますね」
 予定日までに、だいぶ日にちがあるにも関わらず、あっさりと言う。
 まさかと思いつつも、今、まさに産まれ出でようとする我が子に問う。
「本当なの・・・?」
 半信半疑であったユーリだったが、感じる身体の変化に、じわじわと実感が沸いてくる。
 その側で、安堵のあまりに床へへたり込んだハディが、
「私どもに内緒で、何か運動なさいましたね?!」
 思わず、抗議の声を上げた。


 それから、知らせを聞いたカイルが会議を放り出して後宮へ駆け込み、陣痛の隙をみてユーリが産屋へと移動するなど、王宮はにわかに慌しくなった。
 その中、産室から追い出されたカイルは、唯唯、祈る事しか出来ない我が身を恨んだ。
 ユーリの呻き声が聞こえるたびに、代わってやりたいと切実に思い、身体が凍る。

 周りが全く見えていなかったカイルだったが、鳥のさえずりに、初めて朝が来た事を知った。
 しかし、産室から自分の存在を示すかのような泣き声が響いた時、カイルは自分が何をしているのかが全く解らなかった。
 指を頬に這わせることによって、初めて己の涙を知り、思わず呟いた言葉は、一体誰の為のものなのか。


「ありがとう・・・・・」


                 (おわり)

      

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送