はしばみのなみだ
榛の涙


  by千代子さん


兄上さま、愛しい愛しい兄上さま、
ただいまはいずこの雲居においでになられるのでございましょうか。



兄上さまが亡くなられて、すでに幾年が過ぎたのでございましょう。

いまは、次兄上さまの御世となり、
皇后陛下、皇太子殿下もお健やかに、戦乱の影すら見えぬ平和な世と相成りました。

いま、こうして私の歩んできた道のりを振り返りますれば、
兄上さまをお慕いする気持ちがいまだ止まず、
もはや夢を見ているばかりの娘でもないことながら思い切れぬこと、
兄上さまにはお笑いでいらっしゃることでございましょう。

私のような数ならぬ身に、兄上さまは何かとお目をかけてくださり、
私いささかうぬぼれておりましたこと、
お許しくださいますか。

父帝さまのお血をひきし、私どもきょうだいのうちで、
私は姉妹中で一番兄上さまに面差しが似ていると言われたことを誇りに思っておりました。

兄上さまのご生母が早くに亡くなられたのと同じく、
私の母もまた、私の成長を待たずに亡くなりました。
兄上さまは当時皇后陛下でおいで遊ばした次兄上さまのご生母さまがお育てなさいましたれど、
私は父帝さまのご側室で、お子を亡くされたばかりのお方の手を借りて、
今日まで生きてこられたのでございます。

兄上さまはそれを不憫とお思い下さり、
私に何かにつけお声をかけてくださり、
どこかへ行かれたときにはかならずお土産をお持ちくださいましたし、
季節の折々には心ばかりとはおっしゃりながらもお気の利いた贈り物を下さったこと、
感謝いたしております。
私、生涯忘れはいたしませぬ。



少女のころ、
王宮のどこにいても、
私は兄上さまのお姿がすぐに判ったものでございました。

次兄上さまと並ばれると、あまりにお二人が似ていらっしゃるため、
どちらがどちらか判りかねると申す姉妹たちの中で、
私は一目でどちらが兄上さまでいらっしゃるのか判ったのでございます。

判っておりました。
兄上さまのことは、全て判っておりました。
兄上さまの一挙一動に気を張っていた私でございますもの。

それくらいのことが判らぬわけには、いかなかったのでございます。



やがて年月は流れ、
長兄上さまが皇太子殿下とおなりあそばし、
次兄上さまが行く末は皇帝陛下におなりあそばすもの、と決まりますと、
兄上さまはカネシュの知事になられるとて、かの地へ赴任されて行かれました。

あれは、たしか春の日のことでございましたろうか。

当時、私はどのような状況で、その話を伺ったのか記憶にはございませぬが、
兄上さまが都の地を離れていかれることの寂しさで、
泣きつづけていたのを覚えております。

次にお会いできる日はいつになるのだろうかと、
そればかり思い過ごすうち、
私は耳を疑うかと思うくらいの噂話を耳にしたのでございます。

それは次兄上さまがご側室を迎えられたのだという噂でございました。

次兄上さまはいずれは皇帝陛下とおなりあそばすお方として、
日々精進されておいでのお方でございましたが、
軍事の指揮をとらせれば右に出る者はなしという評判と同じくらい、
浮名を流すのも帝国一ではないかと囁かれていたお方、
いままで女君のもとへ通われても、
けして側室として迎えようとなさらなかった次兄上さまが、
一体どのような風の吹き回しかと、
私ども姉妹一同、寄って集ってはその噂で持ちきりでございました。

それからしばらく経って、王宮で父帝さま主催の宴が催されたとき、
私は次兄上さまのお心がしかと判ったと思いました。

イシュタルと囁かれしご側室さまの、
その美しさと申しましたら、
とても一言では申し上げることのできぬものなのでございます。

私のすぐ上の姉など、
女神が降臨したごとくと申しまして、
しばし恍惚の世界に酔っていたようでございます。

ですが、私は冷めておりました。

次兄上さまのご側室さまは確かにお美しいお方ではございますが、
そのお傍にいらした兄上さまに、
私の目は釘付けとなっていたからでございます。

兄上さまはこの宴の数日前に、
カネシュからお戻りあそばしたとて、
次兄上さまのおん宮にお身を寄せておいででございましたが、
おそらく、そのときからなのでございましょう。


兄上さま、
あなたさまは、こともあろうに腹心とも頼む次兄上さまのご寵妃さまに、
お目を奪われてしまわれたのでございますね。

もしも兄上さまの異母妹でなくばと、
常日頃から思い悩んで参りました私でございます。
そのくらいのこと、
兄上さまのお目を見ていれば判ることなのでございます。

浮世を流されつづけた次兄上さまに対し、
兄上さまは水面の下の藻のように静やかに、
これといって目立つこともなくお過ごしのこしかたでおいででございましたれど、
やはり本当に唯一人の姫君には巡り会うことかなわなかったと見え、
私、少々不憫に思いこそすれ、
密かに胸を撫で下ろしていたものでございます。

兄上さまのお妃さまとおなりあそばすのは、
私の目にかなうお方でなければならぬと、
私いつの頃からか一人でそう決めておりました。

その点、
次兄上さまのご側室さまは申し分のない方で、
かのミタンニ戦の折も次兄上さま兄上さまを女性の身ながらお助けし、
その名を近隣諸国へ知らしめたという、
どこをとっても満点のお方でございました。

このようなお方にならば、
兄上さまのお妃さまとて致し方なかろうと思いましたれど、
そのお相手はこともあろうに、
兄君さまのご寵妃さまなのでございます。

なんというお労しい兄上さま、
よりにもよって兄君さまのお妃さまにお心を奪われておしまいになられるなど、
ご自身もさもお心苦しいことだったのでございましょう。

ですが、私にはなんの手助けもかなわず、
折に触れて相変わらず、
以前からの習慣で私へ季節のものなど届けてくださるのに、
兄上さまが首都にいらっしゃるとのことで、
じきじきにおいでくださったことがございました。

私が、差し障りのないように、

「お妃さまはお決めなさいましたか」

と、兄上さまのお好きなお茶を差し上げて申しましたところ、
兄上さまはとたんに寂しいお顔をなされ、
私の額を指ではじきながら、

「子供がませたことを言うものではない」

と一笑されたのでございました。

私は、
兄上さまのすぐ下の弟君の、すぐその下に生まれたのでございますから、
しかも直兄上さまとは歳の差一年もなく、
したがって兄上さまとも指折数えるまでもない年齢差でございますのに、
このように子供呼ばわりなさるのは胸にわだかまりがあってのこと、
それは即ち、次兄上さまのご寵妃さまへ向けられしお心を、
私が突いたからに違いないのでございました。

兄上さまはすぐにお話を別の話題へそらし、
他愛もない口調でたっぷり夕暮れまでごゆるりとされた後、
おねぐらとされている次兄上さまのお宮へ帰られていかれましたが、
私、そのお背中を見送りながら思ったものでした。

――朝のご朝食から、夜に眠るときすらご一緒という兄君さまとご寵妃さまがおいで
遊ばすところへお帰りになられる兄上さまのお気持ちは、
さぞかしお辛いものでございましょう。

お心を寄せる女性が、
やはり腹心の兄君さまと、ご自分と同じ屋根の下で愛し愛されることなど、
夜も眠ることかなわぬほどにお辛いことではございませぬのか。

やはり、
それを思うにつけ、兄上さまと兄妹として生まれた因縁を思わずにはいられません。

兄上さま、
私は、兄上さまをお慕い申し上げているのでございます。

兄上さまのおん為ならば、
数に足りぬ私ではございますが、
この命を賭してもかまわぬと、幾度思ったことでございましょうか。

おかわいそうな兄上さま、
なんとかして、晴れやかなお心を取り戻して差し上げたいと、
そう思ったその矢先の、あの事件でございました。

エジプトの青年王の死が、よもやわが帝国に及ぶなど、
誰が考えたことでございましょうか。

ましてや、それが兄上さまのおん身に結びつくとは、
一体どういう前世の業でございましょう。

父帝さまがエジプトよりの書簡を受け取られてから、
兄上さまの旅立ちまでは、
一夜の夢のごときものでございました。

あれよあれよと言う間に、
兄上さまがエジプトの王となるべくお婿入りされることが決まり、
その出立の日、
別れを惜しむ姉妹たちに混じり、私もお別れを、と思いましたれど、
それはとてもできぬ相談でございました。

私には身体を引きちぎられるほどに辛いことでした。
どうして、並みの姉妹たちのように泣くことができましょう。

ですがあのとき、
兄上さまが旅立たれるあのとき、
どうして一言の言葉すらかけなかったのかと、
いまはひたすら後悔いたしております。

されどもどうして、口を利けたのでございましょうか。

あのとき、
兄上さまのお傍には、次兄上さまとそのご寵妃さまがおいであそばされ、
私などがうかうかと入ってゆくことなどできませんでした。

されど、いまは後悔しているのです。

あのときは、
生きてさえあれば、いずれどこかで相まみえることもあろうと思いこそすれ、
これが今生の別れになるなど露ほども思っておりませんでした。
いいえ、
どうして思えたことでしょうか。
そのようなこと、
思い当たるはずもないのでございます。

……兄上さまが、誰も知らぬ砂漠の上で相果てなさったと聞いたとき、
私もまた死んだのでございました。

報が届き、
兄上さまが死の間際に次兄上さまのご寵妃さまをお助けになられたと知ったとき、
身体中の血が逆流するほどの興奮を覚えました。

兄上さまの死と引き換えに、
あのお方は生きて、
そしてご自分の愛される次兄上さまのおん許に戻られたのでございますもの。

これは嫉妬でございました。

ご寵妃さまが兄上さまの婿入りの一団を、
国境までお見送りなされると聞きましたとき、
私は兄上さまの邪念も、
これで案外綺麗にぬぐうことができるのではないかと思ったものでございます。

兄上さまもおそらくはそのお気持ちでございましたろう。
されど、
当時の皇妃の座にあったあの方の陰謀のため、
兄上さまはお命を落とされ、ご寵妃さまもまた同じと聞きまして、
事実を認めることできぬと、
居ても立ってもいられず軍を率いて首都を発っていかれた次兄上さまに続いて、
私も神殿に篭り、その話の虚偽を祈ったのでございますが、
事実は空しいものでした。

そして兄上さまの死、
ご寵妃さまのご無事な生還を知り、
なぜお二人の立場が逆となじりたくなる気持ちを抑え聞いた話によりますれば、
ご寵妃さまは背に証拠となる矢を生やしたまま、
次兄上さまの腕に飛び込んだというではございませぬか。

これで戦争が起きなかったのだと聞いても、
私は兄上さまのことを思うと悲しくやるせなく、
夜になると毎夜のごとく夢を見ました。

兄上さまはご寵妃さまを逃がし、
ご自分が盾となって、ひたすらおおせあそばすのは、
兄君さまのおん許へかの姫君を帰さなければ、とそればかりなのでございます。

兄上さまのご無念、
痛いほど胸にせまり、
目覚めて後も震えが止まらなかったものでした。

それを思えば、
ご寵妃さまへの嫉妬の炎は、
ただ単に兄上さまを見殺しにしたというだけではなく、
兄上さまにそこまで愛されたという、
一人の女としての嫉妬として私の胸を焦がすのでございます。

されど、
私がいかに嫉妬の炎に油を注ごうとしましても、
それは空しく鎮火していかざるを得ないのでございました。

一日、夜遅くにわが小宮へ訪問のお方があり、
お会いしてみるとそれは次兄上さまのご寵妃さまなのでございました。

聞けば次兄上さまから兄上さまと私の兄妹の仲をお伺いあそばされたらしく、
その最後のご様子、
そしていかに兄上さまが帝国のため、
そしてご自身のために、
あの縁談を成功させようとお心を砕いていらしたかをお伝えくださり、
いつしか私は涙止めどもなく溢れ、
止める術もなくなってしまっているのでございました。

ご寵妃さまは私の手をそっとそのお手におやさしくお包みくださり、
繰り返し、
兄上さまを死なせたお詫びを仰せ下さるのでございます。
しかも、そのお顔には涙のとくっきりと、
それが本心に背いたことではないのを傍目にも判るだけに、
心から一時でもこのお方を憎んだわが身が恥ずかしくなったものでした。

ご寵妃さまは、
一日も早く、私が心よりの笑いを取り戻すよう、
繰り返し仰せになられてお帰りになりましたが、
このときから、薄皮を剥くように私の心の闇もはがれていったことは事実なのでした。

なお、このご寵妃さまこそ、しばらく後の話にはなりまするが、
次兄上さまのご正妃さま、
かつはわが帝国の皇后陛下におなりあそばすお方でいらっしゃるのでございます。



やがて父帝さまが病魔に倒れ、
長兄上さまが皇帝にお就きあそばしたのもつかの間
すぐにかの皇太后の手によりお亡くなりになられ、
次兄上さまがその後にお就きになられて早幾十年、
こうして世も平和となりましたが、
私の心はあの時止まったまま、未だに兄上さまを思っているのでございます。

兄上さまのご遺体が見つかっていないというのは、
あの何もかも埋め尽くしてしまうという砂漠にあって、
それも道理なのでございましょうが、
それは裏を申せばどこかで生きておいで遊ばすという希望をつなげられるということになりはしますまいか。

ですが万が一にも、
そのようなことがあったとしても、
私は兄上さまにお目にかかれることはございますまい。

されど、私はいつも祈っております。

兄上さまが、
どうぞお幸せに、
お心満ちた兄上さまの、
おやさしい榛色の瞳に涙の流れることがなきよう、
祈ることしきりなのでございます。





(完)

       

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