おやじ───男の背中


 その言葉を聞くまで、私、カイル・ムルシリは幸せのただ中にいた。
 いつものようにユーリと愛し合い、柔らかで芳醇でみずみずしい肌をたっぷりと味わい、余韻にひたりながら愛しい妻の身体を抱きしめていた。
 腕の中で、ユーリの身体が徐々に静まってゆくのが分かった。
 あいもかわらず、象牙色の肌は弾力を持ち、しなやかな身体は時の流れを感じさせない。 歳をとることを知らないユーリのために、私はどんな努力も惜しまなかった。
 体の線が崩れないように、毎日腹筋と、腕立て伏せと全力疾走を欠かさないし、頭皮マッサージだってしている。食事だって、暴飲暴食を慎み、健康のために酢を飲んでいる。
 おかげで、いまだに贅肉一つ付いていないし、体力も衰えていない。
 もしユーリが、朝まで休みなく愛して欲しいと言ったら、それに充分応えて一睡もさせない自信もある。残念ながら、そんな嬉しいことはまだ一回も言ってくれたことはないが。
 何人子供を産もうと、私といくど夜を越えようと、ユーリは恥じらいを忘れない。
 その初々しさが、とてもかわいい。
 腕の中のユーリが重くなった。そろそろまどろみ始めているのか。
「ユーリ」
 ささやく。
「う・・・ん・・」
 寝ぼけてこたえる様子に、胸をしめつけられる。
 裸の身体の上に毛布を引き上げ、しっかりくるむ。
 ユーリがすり寄り、肩があらわになった。
「ダメだよ、暴れちゃ・・・フトンが・・・ふっとんだ」
 もぞもぞしていたユーリが、ぴたりと止まった。
「カイル・・・」
「なんだ?」
 きっと、くすくす忍び笑いが聞こえる。私はユーリの少女めいたその笑い方が、とても好きだった。
 ユーリがあくびをかみ殺しながら、言った。
「それ・・・つまんないよ・・」
「・・・・・」
 が〜〜〜〜〜ん!!
 ・・・・ショックだった。心臓が止まるほどショックだった。
 こんなにショックを受けたのは、娘のマリエが8歳の時に、
『マリエちゃんは、大きくなったら父さまのお嫁さんになるんだね?』
 と言った私に、マリエが
『ならないよ、親子は結婚しちゃいけないんだよ』
 と冷静に返して以来だった。
 あの時は、まだ良かった。マリエは幼いながら「ヒッタイト法典」にも通じた賢い子供だと分かったからだ。
 だが、今回は違う。
 私は、地上で、いやこの世の中で一番愛しているユーリに「つまらない男」と言われたのだ。
 もしや、ユーリ。もう、おまえは私に飽きたのか?中年になってしまった私のことは、もう愛していないのか?
 腕の中で眠りに落ちているユーリを見ながら、まんじりともせずに朝を迎えた。



「突然だが、キックリ。・・・フトンがふっとんだ」
「うわっはっは・・・し、失礼しました陛下、いったいどうされたんです?」
 大声で笑ったあと、キックリは赤くなって訊ねた。
 どうやら、キックリにはウケたらしい。
「いまのは、どうだ?」
「フトンですか?陛下のセンスにはいつも敬服いたします」
 うやうやしく頭を下げるキックリを見て、私はため息をついた。やはり、そうレベルが落ちたとも思えない。だが、ユーリは「つまらない」と言った。
 あれは、今の冗談がつまらなかったわけではなく、私のことをつまらない男という意味で言ったのだろうか?
「陛下、いったいどうされたのです?」
 二人の妻が料理に腕をふるうせいか、目立ち始めたキックリの腹を見ながら首を振る。「今のは・・ユーリにはウケなかった」
「ええっ!?」
 キックリは驚いて目を見開いた・・・つもりらしい。
「私はユーリに嫌われたのだろうか?」
 思わず気弱な発言をしてしまう。
 今朝方のユーリは、憔悴した私の腕からさっさと抜け出たような気がする。
 愛が醒めたのだろうか?
「失礼ですが、陛下」
 キックリが、しばらく考え込んだ後で、口を開いた。
「ユーリさまは、イシュタルさまとも呼ばれる聡明なお方です。もしや、もっと高度な会話を期待されているのでは?」
「私が・・・高度ではないと?」
 うなる。たしかに、あの時はユーリは寝入りつつあったし、私も多少は気を抜いていたところがあったかもしれない。そう、軽い気持ちで口にしたのだ。
『フトンがふっとんだ』
 使い古されているだけの言葉を、ろくに推敲もしないで使用した。
 そんな私にユーリは愛想を尽かしたのか?
「陛下、ここはひとつイル・バーニさまにご相談されては?」
「イルに?」
「はい、イル・バーニさまの知略は誰もが一目おくところ。必ずや良いアドバイスが受けられることと存じます」



「『フトンがふっとんだ』・・・いけませんな」
 イルが腕組みをする。長年オールバックにして引っ張り続けた額の生え際は、酷使に耐えかねて徐々に撤退しつつある。しかし、それが彼の知的な容貌をさらに際だたせたのは事実だ。
「・・・いけないか?」
「はい」
 イルが重々しくうなずく。
 やはり。私とキックリは顔を見合わせた。
「第一に、知性が感じられません。安易な駄洒落に逃避するのは、おのれの無教養さを露呈させるだけです。次に、あまりにも即物的すぎます。ひねりのない漫言は、思考力の無さをあからさまにするだけです」
 イルの言葉に、私は心を打たれた。
 無教養と、思考力の無さ。皇帝にとって重要な資質を持たないも同然の発言に、ユーリがあきれたのは無理もない。
「で、では、どのような会話が正しいのですか?」
 キックリが息せき切って訊ねた。
「・・・ハディは、近頃すこし耳が悪いようなのです」
「はあ?」
 イルが遠い目で見た方向を、私とキックリも見上げた。
「昨日も、私が『おかわり!』と言って2回目に茶碗を突きだしても、気がつきませんでした」
「そ、そうか?」
 夫婦間でのコミュニケーションの不足か?
「いったい、どこが悪いのだと思われますか?」
「どこが、と言われても・・」
 頭をひねる私とキックリに、イルはにやりと不敵な笑いを浮かべた。
「さんはんきかん(三飯聞かん=三半規管)・・・」
 !!!!!
 息をのんだ。なんという、見事な冗談だ。イル・バーニの持つ知識の豊富さと、教養を余すところなく顕わしつくしている。
「さんはんきかん!!」
 キックリが悲鳴に近い声で繰り返した。
「す、素晴らしいです、イル・バーニさま!!」
「ああ、さすがだ、イル」
 私も賞賛した。そうだ、真の王者の戯れ言とは、こうあるべきなのだ。
「よろしければ陛下、このネタ、お使い下さい」
「いいのか!?」
「御意」
 深々と頭を下げたイルの前で、私は喜びに震えた。
 ユーリがこの言葉を聞いたとき、どんな反応をするだろう?
『カイルってやっぱり素敵ね!』
 そう言って抱きついてくるかも知れない。
『あたし、カイルにはいつまでも立派な皇帝でいてほしかったの。昨日の夜は、わざと冷たくしたの。酷いこと言ってごめんなさい』
 おまえはいつも私のことを想ってくれているんだね?酷いなんて思わない。
 おまえの言葉にどんなに棘が含まれようとも、私には蜜のように聞こえるから。
「さんはんきかん・・」
 口の中でそっと、つぶやいた。


                   おわる。      

    

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