帰郷
強い日差しがうねる水面をときおり銀に染める。
船縁に頬杖を突いて、瞳が焼かれるのも気にせずにどのくらいそれを見つめていたのだろう。
「姫さま、船着き場に・・」
控えめな侍女の声が、思いに耽る意識を引き戻す。
そのままではお身体に障ります、どうぞ船室にお戻り下さいと、何度も告げては退けられた侍女はすでにあきらめ、主の上に天蓋を掲げて辛抱強く日差しを遮ろうとしていた。
ネフェルトは、残像に眩んだ視線を河岸に投げた。
大河から分かれて引かれた運河の片岸に、いくつかの突堤が張りだしている。
対岸の商港とはとは違うそれは、大貴族達の専用の船着き場だった。
裕福な私用の港の中でもひときわ大きな突堤に、人だかりがあった。
「姫さまのお迎えですわ!」
侍女の弾んだ声が届いたのか、人夫の片腕があげられる。
風をはらんだ帆が傾くとまたたくまに、船は弧跡を描き船着き場にすべり込んだ。
「おかえりなさいませ!」
出迎える使用人達が、船に取りつき、綱を手繰り寄せる。
たちまちに起こる喧噪の内、頭一つ高い姿が人混みを割って歩み寄ってくる。
「・・・兄さま」
立ち上がったネフェルトに、兄ラムセスは片頬をゆるめてみせた。
「ご苦労だったな」
差し出された腕に、ネフェルトは手を添えた。
「王のところには落ち着いてから伺候するといい」
積み荷を降ろすのに指示を与えながら、ラムセスは輿を呼び寄せた。
「はるばるヒッタイトくんだりまで行ったんだ、ゆっくり休め」
「・・・でも、報告をしないと」
まだ少し揺れているような地面をふみしめながら、ネフェルトは首をかしげた。
名代としての仕事は、報告をもって終了するはずだった。
直接テーベに入らずに、一度メンフィスに戻れと指示があったのは河口の町に着いたときだ。
「なにか、王宮であったの?」
「いたって平和なもんだ。最大の敵とは和解して外憂も無くなったしな」
ラムセスはそっけなく言うと、背を向ける。
「報告はそう急がなくとも、早馬が着いている」
早馬はどこまでの情報をもたらしたのだろう。
ネフェルトは、兄の広い背中に瞳を凝らした。
息を切らせて片膝を着いた使者の言葉に、食い入るような兄の姿が思い浮かんだ。
一通りのことは知られているのだろう。
「・・・とりあえず、お前は休め」
ネフェルトはため息をついた。
「そう疲れてもいないのよ。ずっと船だったから。かえって身体がなまったくらい」
言うと、控える輿を横目に兄の姿を追った。
大股に合わせて小走りに寄り添う。
「ハットウサって賑やかなのね・・・驚いた」
「ああ」
「ラピスの石の良いのがあったから買ってきたわ。細工をさせましょうね」
「産地の近くだからな」
「細工はやっぱりエジプトの方が良いみたいだけど」
「そうだな」
「お土産がいっぱいあるの」
「ネフェルト」
不意にラムセスが立ち止まった。
金とセピアの瞳が、まっすぐに見下ろしていた。
「お前には、いい嫁入り先を見つけてやる」
一瞬虚をつかれたように黙り込んだネフェルトは、次にはわずかに頬をゆるめていた。
「うん、期待している」
兄らしい、といえば兄らしい慰めだった。
「でも、私は理想が高いのよ?」
差し伸べられた手の軌跡がよみがえり、鼻の奥がつんと痛くなった。
血の気の引いた指先は、寸前でネフェルトの前からそらされた。
敗北感とは無縁の人生だったはずなのに。
「誰でも、って訳にはいかないんだから」
「・・・やっかいだな」
歩き出したラムセスの低い声に、あわてて腕に腕をからめた。
伸び上がって耳元で、ことさらに明るく言う。
「聞かないの?花嫁のこと?」
「花嫁姿ならもう見たしな」
憮然とした横顔を見て、ネフェルトは肩に頭をすり寄せた。
「とっても綺麗だった・・・それに幸せそうだった」
「当たり前だ」
でなけりゃ手放さない、とラムセスがつぶやく。
ナツメヤシの落とす黒い陰の中を、しばらくの間無言で歩く。
瞼を閉じても、焼き付いた影がちらちらと踊った。
どうぞ、お幸せなご一生を。
あの声が言った。
「兄さま」
目を開けば、風景が霞んでいる。
ゆがむ景色は、河から吹きつける風が砂を舞い上げるせいなのだと考えよう。
「・・・兄さまにも、いい人紹介してあげるから」
「オレは理想が高いんだよ」
とりあえず、と妹の涙には気がついていないふりでラムセスが言う。
「今夜は、飲むか」
「・・・それって、効果は実証済みなの?」
やっぱりおまえはかわいくないと、ラムセスがぼやいた。
おわり
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