那由多の恋

                     by 千代子さん


 例えるならば、真綿で包まれている感覚なのだろうかと、ユーリは夢うつつにそんなことを思った。
 閉じた瞼の裏には、まだ昨日の結婚式の興奮と感動がありありと浮かび上がってくるばかりか、耳を済ませば自分の体の奥深くに、もうひとつの鼓動をも感じられる。
 部屋に朝の気配が満ち始めたのは感覚として判るけれど、ずっとこうしてカイルの腕に抱かれたまま一日を過ごしたいような、しかし名実ともに皇妃となった我が身の、その最初の一日を早く迎えたいような、くすぐったい思いが胸の中で穏やかな波のように行ったり来たりを繰り返していた。
 しかし、日ごろの習慣には勝てなかったようで、ユーリは薄っすらと目を開けた。
 いつもと同じ朝の同じ光、カイルの閉じた瞼、長いまつげ、自分の体に巻きついたの重さを、ひとつひとつ何の気なしに確かめてみる。
 そしてそのまま、カイルの肩越しに見える部屋をじっくりと見回してみた。
 側室だったいままでの部屋も、後宮の中では調度もよく整えられた上等の部屋だったけれど、やはり正妃の部屋には及ばないと見え、ところどころ目を凝らさなければ見えないようなところまで手が込んであって、ここが正しく後宮の最高位に位置する者に相応しく作られた部屋なのだと判る。
 煌びやかな女性らしい装いの苦手なユーリも、さすがに嬉しかった。
 この部屋はもともとナキアが別宮を建てて王宮から出て行くまで使っていたものだけれど、元を正せばカイルの生母ヒンティ皇妃の部屋だっただけに、もしも皇妃健在なれば我が姑に当たる人ではあるし、なによりも見えること適わなかった皇妃との距離が縮まった気がするだけに、居心地は悪くはない。
 思わず口元が綻んで、かすかな笑い声でも立ててしまっていたのだろうか、その声がカイルを起こしてしまったらしい。
「……おはよう」
 いままでと変わらない朝なのに、照れくさくて、顔を伏せてしまう。
 寝起きで少しかすれた声が、カイルの胸に顔をうずめたユーリの耳先を掠めていった。
「なんだ、まだ眠たいのか?」
 昨日はぐっすり眠れたろう、と囁かれて、ユーリはぷっと吹き出してしまい、顔を上げた。
「おはよ、カイル」
 言う間も待たずに、カイルの唇が降りてくる。
 二人の動きでシーツが擦れる音が、なんとはなしにユーリには聞き心地がよかった。
 いつもなら、唇を放してしばらくまどろんでから起き上がるカイルが、ユーリの下腹部に唇を寄せた。
 一瞬、何事かと上体を起こしたユーリだったが、それはすぐに判った。
 いまはまだ目立たないけれど、これからゆっくりと膨れていくそこには、確かにカイルの子がいる。

 夕べの寝しな、式が終わってから受けた診察で正しく懐妊、誕生はつぎの秋ごろ、という医師の言葉をそのまま伝えたユーリをカイルは抱きしめ、薄物ごしに下腹部へ顔を寄せ、唇を当ててその存在を確かめようとしていた。
 ユーリはカイルの幸せそうな顔を見ながら、今日までの道のりを思った。
 一言では言い尽くせないほど、たくさんのことがありすぎたと思う。
 たくさんの血を犠牲にして、たくさんの涙をのりこえて、今日のこの日を迎えたことは、ユーリにとって涙が出るほど嬉しいことだった。
 寝椅子の背もたれに身体を預けた姿勢で、ユーリは自分の腹部に顔をつけたままのカイルの髪を梳いた。
 生まれてくる子は、男児であれ女児であれ、きっとカイルによく似た面差しをして生まれてくるに違いない、という確信がある。
 どんな根拠だか判らないが、おそらく自分よりもカイルに似ていると思えてならなかった。
 カイルはよくユーリの髪を、
「柔らかで、指を差し入れると吸い付くように絡み付いてくる」
と言うけれど、ユーリにしてみれば絹糸のように細く、いつもさらさらと涼しげな、この瞳と同じ琥珀色の髪が大好きだった。
 情事のさなかで闇夜に踊るその一本一本を思うと、不本意ながら身体の奥が熱くなりかけてしまう。
 そんなことを思ったためか、顔が赤くなったユーリにカイルは唇を重ねた。
「……なにを考えている?」
 ユーリはカイルの髪に指を差し入れて背のほうへ梳いた。
「赤ちゃんがカイルに似てるといいなって……」
「それだけか?」
 ユーリを自分の膝の上へ抱き上げて、見透かすようにカイルは言う。
「それだけ!」
 指先でカイルの鼻先をちょんとつつき、そのあとで頬にキスしてユーリはおどけてみせた。
 一瞬、視線が交差した。
 そしてお互いに微笑みあうと、ユーリはカイルの胸に顔をうずめた。
「待ち遠しいね」
 カイルの手がユーリの腹部へ移る。
「……名前、考えないとな」
「まだ早いよ」
 他愛ない会話だったけれど、ユーリにはそれがどれほど嬉しかったことか。
 互いに父親と母親として、まだ生まれてはいないけれど、子を生した興奮、そして喜びは身体のうちに留めておくことなど出来ない、と思う。
 出来るなら、王宮を飛び出し、世界中の人々の一人一人に言いふらしたいくらいだった。

 カイルの唇が、下腹部からユーリの唇へと移った。
「そろそろ起きなくちゃ」
 朝の気配がだんだんと迫ってきている。
「皇妃陛下の悪阻のため今日は休日、というのはどうだ?」
 カイルの真剣な瞳に、
「だめよ、まだ来賓の方々もいらっしゃるんだから。この機に話し合っておかないとならないことだってあるでしょ」
と、ユーリは幼子を嗜めるような口調で返したものの、
「でも、それもいいかもしれないね」
と笑ってカイルの首に腕を回した。
 お互いに忍び笑いだったのは、廊下のほうから聞こえる侍女たちの足音のためだろうか。
 今朝は厳密に言えば新婚の朝だから、それなりの儀式があった。
 侍女たちはその仕度でおおわらわなのだろう。まもなく、ハディが朝の挨拶にやって来るに違いない。
「まったく、こういうときばかりは皇帝も楽じゃないな」
 カイルがユーリから少し身体を放したちょうどそのとき、扉の向こうから遠慮がちなハディの声が聞こえた。
 予想通りのことに顔を見合わせて笑いあいながら、ユーリは自分はいま、とても幸せなのだと思った。
 これから全てが始まる。このベッドから起き上がって床に足をついたら、その一歩は皇妃としての、そしてカイルの妻としての第一歩になる。
 ユーリは、折りよく室内を照らし始めた陽の光を浴びながら、この恋が永遠に、那由多のかなたまで、と祈らずにはいられなかった。
「さぁ、起きようね」
 昨日からの癖の、腹部に片手を置いてユーリはそっと呟き、カイルとともに寝室の扉を開けた。
 陽は、眩しいばかりに輝いている。


     ※那由多…数の単位。10の60乗。極めて大きな数量。


                 (おわり)

      

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