祝祭(後編)



 小さな声が、なにごとか言っている。
 重なるように低い柔らかい声。
 もうすぐ、デイルに乳を与えないと。
 ユーリは引き剥がすようにしてまぶたを持ち上げた。
 オレンジに近い色の光が、周囲に拡がっている。
 シーツの皺が深い影を刻んでいるのは、光が灯火からもたらされたものだからか。
 それの意味することが掴めずに、しばらくの間、揺れる影を眺めていた。
 耳に届く声は歌を口ずさんでいるようだった。
 それがカイルの声であることに気がついて、ユーリは跳ね起きた。
「カイル?」
 寝台のそばに置かれた椅子から、カイルが顔を上げた。
「起こしてしまったか?」
「どうして・・」
 カイルの腕に抱かれているデイルの姿に、息を飲んだ。
 カイルの片腕はしっかりと幼い息子を抱き、もう一方の利き手には素焼きの容器が握られている。
 細長い漏斗状のそれには小さな穴が穿たれていて、それにデイルが吸い付いていた。
 とたんに胸が張った。
 夜明け前に、泣き叫ぶデイルに乳を与えてから、今の今まで眠っていたようなのだ。
 掲げられた灯火から、どうやら日没はとうに過ぎたらしい。
「カイル・・あの・・・」
 寝台から下りようとすると、カイルが首を振って制した。
 そのまま立ち上がり、近寄ると寝台の端に腰を下ろした。
「よく眠っていたな」
 かあっ、と頬が紅潮した。
「ごめんなさい!」
 幼い息子を忘れて眠りこけていたのだ。ユーリは恥じて顔を伏せた。
 その姿を、カイルは不思議そうに見た。
「なぜ謝る?・・・私は久しぶりにお前の寝顔を見られて嬉しかったのに」
 デイルが小さな声をあげると、カイルは器用に息子を抱き直した。
「それに、息子ともずいぶんゆっくり時間を過ごせた」
 小さな鼻先に唇を押し当てる。
「デイルは母さまにべったりだからな。たまには父さまと過ごしてくれないと」
 くすぐったいのか、デイルが身をよじった。
 明るい笑い声を聞いたのは、久しぶりだと、ユーリは考えた。
 思い返せば、最近の自分はデイルの泣き声しか聞いていなかったような。
 それとも、デイルは自分といるときには笑わなかったのだろうか。
「あたしといたって、デイルは泣くばっかりだもん」
 つい愚痴をこぼしてしまう。
 こんなことを言いたいはずではなかったのに。
「それはお前がデイルと一番長く過ごしているからだよ」
 カイルは面白そうに言うと、ユーリの上体をあいている腕で抱き寄せた。
「まったく、妬けるぐらいに二人で一緒にいるから」
 近づいた母親に、デイルが手を伸ばす。
 小さな指が、服を掴んだ。
「ほら、お前の方が良いらしい」
 ユーリは緩慢に手を挙げると、デイルの髪を梳いた。
 柔らかい赤ん坊特有の細い髪が濡れたように指にからんだ。
「でも、泣いてばっかり」
 機嫌の良い笑い声を聞いて、唇を噛む。
「あたし、むいてないのかな?」
 今さらの泣き言だとは分かっている。
「むく、むかないの問題ではないだろう?デイルの母親はお前なんだから」
 両腕に、家族を抱き込みながらカイルは低く言った。
「無理することはない。なにをそんなに気を張っているんだ?」
「だって、デイルはあたしが育てるって言ったんだもん」
 寝所にデイルの揺りかごを入れるように命じたときの侍従長の驚愕が目に浮かぶ。
「なのに、今さら投げ出せないよ」
「お前の母親は、どうやってお前を育てたのだ?」
 カイルの言葉に、ユーリは面食らった。
「どうやって、って・・」
「お前の国では、母親は自分の手で子どもを育てるというが、たった一人で家に閉じこもってか?」
 ようやくカイルの言わんとしていることが分かって、ユーリは頭を振った。
 記憶をたぐり寄せながらゆっくりと口にする。
「・・ううん、あたしが生まれた時はお祖母ちゃんがいてくれたし・・・それに近所にママの妹になる叔母さんがいたの・・だから・・・」
 決して母親一人の手ではなかったのだ。
 従兄弟が生まれたとき、ユーリ達姉妹はよく叔母の家に行った。
 小さな従兄弟をあやしながら、ママはなんと言っていたっけ。
『伯母さんと一緒にいましょうね、ママはすこうしお休みよ』
 それはきっとユーリ達が生まれた時にも繰り返されてきたことなのだろう。
「そうか・・・」
 言葉にしてみて、初めて自分が頑なだったことに気がついた。
「乳母の手を借りるのは、子育てを放棄することではないぞ。子どもは皆で育てるものだ。
 私は乳母の手で育てられたが、母上の愛情を不足していると感じたことはなかった」
 カイルの言葉に、やっとユーリは頬をゆるめた。
「あたし、頑張りすぎちゃったんだね・・」
 いつも気を張っていたから、きっとデイルにも不安が伝わっていたのだろう。
 服を握りしめたまま唇を尖らせている息子の頬を撫でた。
「ごめんね、デイル」
 ふやふやと顔をゆがめたデイルは、不意に鼻を鳴らした。
 泣き始める、と思った。慌ててカイルの腕から抜け出すと、ユーリは胸をはだけた。
「・・・お腹、空いてるよね?」
「ああ、どうも私は飲ませ方が上手くないらしい」
 苦笑したカイルが片手で握ったままのほ乳容器を掲げて見せた。
 すぐにむしゃぶりついたデイルにため息をついて、ユーリはカイルの顔を見上げた。
「・・・どうして、ここにいるの?」
 すっかり忘れていたが、明日から始まる祭りのために、カイルは大神殿に泊まり込むはずだった。
「仕方ないだろう?」
 カイルはいたずらっぽく片目をつぶって見せた。
「私は子育て中だから、慣例通りにはいかないさ・・・それに、私の妻は忘れているようだが」
 伸ばされた指が、寝台の上に座ったままのユーリの夜着の裾をつまみ上げた。
 身体を折るようにして、それに口づける。
「今日は大切な記念日なんだ」
「あ・・!」
 鮮やかに甦る光景。
 一年前のこの日、イシュタルの登った最初の夜。
「思いだしたか?」
 皇妃である前に、妻として望まれた日。
「プロポーズの記念日?」
 続く華やかな式典よりもなによりも、大切になるはずだった日。
「・・・忘れてた・・・」
 カイルが苦笑する。
「そんな事だろうとは思っていたが、口に出されるとやはりショックだな。私はあの夜のことはお前の着ていた衣装の模様まで思い出されるのに」
「ごめんなさい・・・」
 夜目に滲むように白い睡蓮の花が咲いていた。
 花の香りの中でカイルが言う。
『どうか、私の妻になって欲しい、ユーリ・イシュタル姫』
 皇妃としての責務を共に背負うというだけではなく、心を寄り添わせて生きていくかけがえのない半身として。
 あのとき、カイルの心が聞こえたはずだった。
 一人だけで頑張る必要はなかったのだ。
 これからはなんでも分け合っていこうと誓ったのだから。
 満足したデイルが、小さな声をあげた。
 抱き直そうとしたユーリにカイルが腕を差し伸べた。大きな手のひらがやすやすと息子を抱き上げると、肩口にもたせかける。
 カイルが息子の背中を軽く叩くと、デイルが息を吐くのが分かった。
「どうだ、慣れたものだろう?」
 カイルの言葉は誇らしげだった。
「考えてみれば、あの日はデイルも立ち会っていたのだな・・・そして、あの日のお前も泣いていた」
 ユーリはこぼれはじめた涙を、指先で拭った。
 あの日と同じように、言葉にはならなかった。
 腕を伸ばすと、カイルに抱きついた。
 あの日と違うのは、抱き合ったふたりの間には、暖かな小さな存在があることだった。
「また皆を驚かすことになるな」
 カイルが言った。
「これから皇帝は新年祭の前の夜は後宮で過ごすことが当たり前になるのだから」
 不思議そうに見上げたユーリに、破顔してみせる。
「記念日を祝うためだ・・・当然だろう?」
 もう一度、カイルの胸に顔をうずめながら、ユーリはうなずいた。
 この人で良かった、心の底からそう思えた。

 こんどはカイルが儀典長を驚愕させる番だ。
 口を大きく開けたまま、息を吸い込むのがやっとの老人の顔を思い浮かべる。
「型破りな夫婦だって・・思われるね・・・」

                  おわり

      

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