おかえしの日
頭が痛い。
ぼくは、目の前で大きな黒い瞳が涙をたたえているのを見下ろす。
なんていうか・・・どうしてこんな事になったのだろう。
華奢な肩をそっと抱き寄せる。
「泣かないで下さい」
囁くけれど、小さな震えはおさまらない。
「だって・・・」
しゃくりあげながら、少女めいた声が言う。
「あたし・・・もう・・・生きていけないよ」
・・・どこかで聞いたセリフだなあ。
「大丈夫ですよ・・・母上」
大きな、ため息をつく。
これって、かなり損な役回りだよな。
「父上に限って、そんなことはありません」
どんなことだって?それは、おそらく耳にすれば帝国中の誰もが笑い飛ばすだろう事だ。
ムルシリ二世が、その正妃に溺れきっていることは誰もが知っている。
皇帝の一日は愛妃に始まり愛妃に終わる。
心変わりなんて、万に一つもないのだ。
でも、当の愛妃である母上はのたもうた。
『最近、カイルが冷たいの』
冷たい、というのは一日も欠かさず寝所を共にして、食事の時も膝に乗せて、ところかまわずキスをすることを言うのだろうか?
『なんだか、あたしに隠し事をしているの』
そりゃ、夫婦の間にだって隠し事の一つや二つあるでしょうね。
『目をそらすことがあるし』
いつも見つめ合っている訳にはいきませんからね。
『話しかけても上の空なことがあるし』
なにか心配事でもあるんでしょう。
『心配事があるなら教えてって、言っても、誤魔化すし』
・・・父上の心配事ってなんだろう?
帝国内のもめ事だろうか?それなら、母上に話すだろうな・・・国政に関しては父上は母上にどんな些細なことでも相談する。
・・う〜ん・・・心配事かあ・・・
隠し事ねえ・・・隠す・・・隠し子・・・とか・・・
「ははは、まさかね・・・」
「なにがまさかなの、ピア?」
あわわわ!つい口をついて出てしまった。
「いえ、なんでもありません!それより、母上、父上の態度がおかしくなったのはいつからです?」
母上は、眉を寄せた。
ふっくらした頬はかすかに上気して薔薇色で、睫毛には涙の煌めきが残っている。
父上が夢中になるお気持ちも分かるなあ。
「あのね・・・一月ほど、前・・・」
そんなに前なのか?
「あれは・・・」
母上は細い指で頬を包んだ。
「そう、バレンタインデイだよ」
「バレンタインデイ?」
バレンタインデイ、別名、父上受難の日。
この、女神として天才的な政治手腕と軍の統率力を誇る母上の唯一にして致命的な欠点が、料理の腕前だ。
母上の料理は・・・破壊的だ。
世の中には『美味しい』『あんまり美味しくない』『不味い』という味覚の基準があるはずだが、母上の料理はさらに独創的に『この世のモノとも思えない』という新たな感覚を与える。
まあ、最近は仕事がお忙しくて、厨房に立って料理長を寝込ませたりすることはなくなったけれど。
でも『バレンタインデイ』にはいかなる政務も、外交も振り切って、父上に『チョコレートケーキ』なるものを作られる。
これは・・・すごいぞ?
言っちゃあなんだが、子どもの時に母上の『チョコレートケーキ』を口にしたぼくたち兄弟はしばらくのあいだ黒いモノを目にしただけで嘔吐感やめまいに襲われた。
それほどに恐ろしいモノなんである。
この恐ろしい『チョコレートケーキ』を、父上は残さず食べる。
愛の偉大さを見せつけられる時だ。
「バレンタインデイに・・・なにがあったのです?」
まさか、父上がケーキを食べなかったとか?
いや、待てよ。今年のケーキが小さいと父上が騒いでいたなあ。
「分かんないよぉ・・・」
母上はまたしても涙ぐんだ。
「カイル、美味しいって食べてくれたのに・・・」
それこそ何にも代え難い愛情表現だと思うけどなあ。自己犠牲の体現だ。
「でも、それ以来、なんだか・・・よそよそしいの」
母上は、手にしたままのぼくのマントで涙を拭いた。
「・・・・・」
「カイル・・もしかして、ケーキが口に合わなかったのかなあ?」
あのケーキが口に合う人間を見てみたいものだ。
「父上はちゃんと食べたんでしょう?」
確か例年よりケーキが小さいから母上の愛情が無くなったって騒いでいたんだ。
「食べたけど・・・」
母上は今度はマントで鼻をかんだ。
・・・ぼくのマントだけど。
「・・・でも、カイル、おかしいの!」
あのとき、ぼくは父上の命で母上の真意を探りに行ったんだ・・・。
真意っていうのは、単にケーキが小さい理由なんだけど。
あれ?あの時、ぼくは父上に報告したっけ?
いや、違う・・・あの日は確か厨房で料理長が泡を吹いていたので、大騒ぎになっていたんだった。かまどが爆発したんだよね。
母上は、ぼくに言った。
『かまどを暖めようとして蓋をしていたら、爆発したの。おかげで材料が半分以上こぼれたよ』
そうだ、ケーキが小さかった理由はそれだ!
母上はぐるぐる巻きになった腕を突きだして見せた。
『カイルが心配するから、内緒にしていてね?』
きっと管理不行き届きでかわいそうな料理長はクビになるかも知れない、そう思ってぼくは父上には黙っていた。
そして、母上は怪我を隠すために・・・
「母上!」
ぼくは勢いよく母上の腕を掴んだ。
母上のほっそりとした腕はすべすべだった。
同じ厨房にいた料理長がいまだ入院中であることから見ても、奇跡の回復力だと思う。
「なに、ピア?」
「バレンタインデイの日、母上はどうやって怪我を隠しておられたのですか!?」
そうだよ、そうなんだ!
「そりゃあ、長袖の服を着てね・・・」
母上は頬を染めた。
「腕が見られないように・・カイルから離れて・・」
当然、夜は寝所も別にしたんだろうな!?
「やっぱり!」
謎は解けた。(ってほどでもないか)
父上は「小さなケーキ」に母上の愛情を疑い、さらに母上が避けておられることに気がついたら・・・
きっと気もそぞろで上の空になったり、悩んで黙り込んだりもするだろう。
なんだ、そうだったんだ、そうかあ・・・馬鹿らしい!
「母上・・」
ぼくは一つ咳払いをした。
「なあに、ピア?」
母上の手から、マントの端を取り戻す。
「父上は、気に病んでおられるのです・・・母上のチョコレートケーキが小さかった理由を」
「・・・まさか、そんなこと」
一国の皇帝の気に病むことではない?でも、本当にそうだから仕方ないでしょう?
「ケーキが小さかった理由をちゃんとお伝えするんです」
そうしたら、怪我したこともばれるじゃない、と母上はぶつぶつつぶやいた。
誰のせいだと思っているんだろう?反省の色がないなあ。
「とにかく、ちゃんとお伝えするんですよ、執務室に戻って」
そう、ぼくの部屋でぼやぼやせずに。
「だって、カイル今日は執務室に来なかったの」
母上はそう言うと、また涙ぐみかけた。
ああああ!なんで泣くんだ!?父上の馬鹿!(完全に八つ当たりだ)
「父上がいない?」
いったい、どちらへ???
ぼくは、もう顔を覆っている母上を前に必死に頭を働かせる。
閲兵は週末だし、見回りには兄上にお呼びがかかるだろうし・・・
皇帝が、他に行く場所といったら・・・・
「大丈夫ですよ、母上」
そのことに思い当たって、ぼくはにっこりとした。
そうだよねえ、一ヶ月。
母上の年中行事があれだとしたら、父上の年中行事は・・・
「父上は、厨房にいます」
「厨房?」
「そう、今日はホワイトデイです」
今年の父上はきっとあらん限りの思いを込めてクッキーを焼いていることだろう。
「ホワイトデイ・・・」
母上はつぶやくと、とたんに弾かれたように立ち上がり、ドアに突進した。
なんていうか・・・迷惑な夫婦だよな・・
母上が消えた廊下を見ながら、苦笑する。
年に一度の『おかえしの日』。
父上と母上が仲直りをすることに・・・賭けたって勝負にはならないか。
ぼくはあの二人の子どもとしての、何度目かのため息をついた。
おわり
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