渡る世間は鬼ばかり


 カルケミシュ王宮ではただいま昼食時だった。
「殿下、おかわりはいかがですか?」
 アレキサンドラは果実酒の入ったデキャンタを持ち上げた。
「ああ、いただきます」
 二人っきりの水入らずの食事。
 大きく開け放たれた窓からは爽やかな春の風が吹き込んでくる。
 ジュダが果物の載った盆に手を伸ばすと、ちょうど同じように手を伸ばしたアレキサンドラの指に触れた。
「きゃっ!」
 小さく悲鳴を上げると、二人は同時に手を引っ込めた。
「ご、ごめんなさい!」
「いえ、こちらこそ」
 言いながら二人して頬を赤らめる。
「あの、姫、お先にどうぞ」
「殿下こそ」
 もじもじしながら二人はうつむいた。
 アレキサンドラがいつまでも手を出そうとしないので、ジュダは小さな梨を一つ取り上げると差し出した。
「ありがとうございます、殿下」
 小声で言うと、アレキサンドラは梨を受け取った。
「いいえ・・・それより、姫」
 ジュダは頬を紅潮させると、目を伏せた。
「そろそろ、それは、なしにしませんか?」
「・・・?なんですの?」
「『殿下』っていうのです。ボクたちは・ふ・ふふふふ・・・ふっ・・夫婦なんですから」
 たちまちアレキサンドラもうつむいた。頬を染める。
「そ、そ・そそう・・そうですわね、私たちふ・ふふ・・夫婦なんですものね」
 二人は真っ赤になったまま、しきりに納得しあった。
「では、なんてお呼びすれば」
「出来れば、名前を呼んで頂けませんか?兄上たちのように」
「お姉さまたちのように?」
 アレキサンドラは両手を頬に当てた。
「お二人のように呼び合うのですね!」
 うっとりとまぶたを閉じる。
 この若夫婦は、目も当てられないほどあつあつの皇帝夫妻を理想としているのだった。
「素敵ですわ・・・」
「ええ、ですから姫」
「『姫』もなしにしましょう。どうぞ『アレキサンドラ』ってお呼びになって」
 ジュダも両手を頬に当てる。
「ボ、ボクがですか?」
「ええ!」
 ごくりとつばを飲み込む。
「で、では行きますよ?・・ア、アレキサンドラ!」
「はいぃぃぃ!!」
 裏返った声でアレキサンドラは答えた。
「さあ、次は!?」
「なんだか恥ずかしいですわ・・・では・・」
 ジュダはきたる言葉にそなえて身構えた。
 アレキサンドラはなんどか口を開いては閉じ、開いては閉じしていたが、やがて甲高い声で言った。
「ハ、ハシュパシュルピさま!」
「名前が違〜〜〜う!!」
 大音声と共に窓に仁王立ちになったのは、元皇太后ナキアだった。
「母上!」
「お義母さま!?」
 驚いた二人に指を突きつけながら、ナキアは憎々しげに言った。
「まったく聞いておればいちゃいちゃと!こっちが恥ずかしくなるわ!」
「では盗み聞きなどされなければいいですのに」
 つんとアレキサンドラが言い返す。
「盗み聞きだと?この私がそんなはしたないマネをするはずがないだろう?息子に顔を見せに来たのじゃ!」
「お義母さまはいつも食事時にいらっしゃいますのねぇ」
「私が食事目当てに来ていると申すか?」
「母上、おやめ下さい!」
 ジュダが慌てて間に入った。
「なにか飲み物はいかがですか?」
「飲み物など、このケチな嫁が文句を言うだろうから遠慮するわ」
「ケ、ケチですって?」
「そんなことを仰らずに」
 必死で差し出したジュダのグラスをナキアは片手で掴むと、ぐいっと飲み干した。
「おお、ジュダ、お前は優しいねえ。それに較べてこの嫁は。自分の夫の名前すら知らないときている。ジュダの名は『ハスパスルピ』じゃ」
「言い間違えただけではありませんか!」
「そうか、田舎者だからなまっているのだね?」
「なまってなどいませんわ!ハスパスルピ!!ほら、ちゃんと言えましてよ!?」
「ほう、10回繰り返せるかえ?」
「出来ますわ!ハスパスルピ!ハスパスルピ!ハスパスルピ!ハスパスルピ!ハスパスルピ!ハスパシュルピ・・」
 アレキサンドラが言い間違えると、ナキアはせせら笑った。
「やはり間違えたね、田舎者が!」
「お義母さまは言えますの!?」
「たやすいこと!ハスパスルピ!ハスパスルピ!ハスパスルピ!ハスパスルピ!ハスパスルピ!ハスパスルピ!ハスパスルピ!ハスパスルピ!ハスパスルピ!ハスパスルピ!」
 きいいっと、アレキサンドラは唇を噛んだ。ここで引き下がる訳にはいかなかった。
「で、では先々帝陛下のお名前は10回繰り返せまして?」
「言えいでか!シュッピルリウマ!シュッピルリウマ!シュッピルリウマ!シュッピルリウマ!シュッピルリウマ!シュッピルリウマ!シュピリュリウ・・・」
「ほ〜〜〜っほっほ!!」
 勝ち誇ったようにアレキサンドラは笑った。
「お義母さまもどうやらお言葉になまりがあるようですわね?」
「な、なんじゃと!?バビロニアを田舎扱いするか?」


 ジュダは離れたところで寂しくグラスを煽っていた。
 呼んで欲しかったのは「ジュダ」という名前なのに・・・
 背後では、いまだ母親と妻が早口言葉合戦を繰り広げている。


                                  おわり

      

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