見学

                    
 by 千代子さん

 よい子は夢の中の丑三つどき、ハットゥサの闇を抜き足差し足で進む影があった。
 影は王宮の中へ進んでいき、やがて後宮の入り口で立ち止まると、しばらくあたりを確かめるようなしぐさをしてから、そっと耳を立てているようであった。
 あたりはしんと静まって何の音もしないようであったが、その耳は何かを聞きあてたのか、後宮の暗がりの中を迷いもせずさらに奥へと進んでいった。
 影は三つあったが、一番先頭の頭が止まったのにならって後ろの二つも止まると、そこはすでに皇妃の寝所に繋がるバルコニーの柱の影だった。
「しかし姫さま、よく方向がお判りになられましたね。灯りもなかったのに」
 闇の中に溶けてしまうのではないかと思えるほどか細い声で、三番目の頭が言った。
「ヒネモスよ、わたしを誰だと思っておるのだ。この部屋はかつてわたしが住んでいた部屋、しかもこんなに狭い後宮で間違えるはずがなかろう」
「さすがナキアさまですわ」
 あたりを憚ってひそひそしながら、それでいて大胆なのは、この影が先の皇太后ナキアとその侍女ヒネモスであるからに他ならなかった。
「うむ、ここからではよく見えぬな…もう少し前に行くか」
 柱の影から出て、バルコニーに降り立とうとナキアは身を乗り出した。
「大丈夫ですわ、ほら、この角度からならお顔は拝見できませんけど、あとは丸見えですもの」
 ヒネモスが部屋の中を指差しながら言う。
「ふん、カイルめ。『頭隠して尻隠さず』とはこういうことじゃ」
 確かに部屋の中はすっかり見渡せた。
「ほれ、ウルヒよ、しっかりと見ておくがよい」
 ナキアは真ん中にいたウルヒの背を叩いた。
「ナキアさま、『頭隠して尻隠さず』とはああいう事を言うのですか?」
 不思議そうにウルヒが部屋の中を指差して言った。
 ウルヒが指差した先には皇妃専用のベッドがあり、いまやその場は皇帝主催の宴が繰り広げられており、草木も眠る夜にも関わらず大宴会の真っ最中であった。
「でもナキアさま、皇帝陛下はお顔は見えませんけど、お尻も見えませんよ」
 クローンとして生まれ変わったウルヒであったが、彼には記憶がなく、ナキアが身体を張ってあれこれ教えていることは教えていたのだが、いよいよお床入りの段階になってウルヒになんの知識もなかったために念願果たせなかったことは、ナキアにとって屈辱以外の何ものでもなかった。
 どうすればウルヒに判らせることができるだろうか、そう考えたナキアがヒネモスに良い案を、と考えさせたところ、ヒネモスが出した作戦というのが「皇帝夫妻の寝所を覗かせること」だった。
 この方法ならせっかく忍んでいっても空振りすることはないだろうし、第一幕を見逃したとしても必ずや二幕、三幕があろうと目論んでのことだったのだけれど、思案どおり、いつとて止まない気配のうかがえる寝所からは、絶え間なく艶を含んだ皇妃の声も聞こえてくる。
「なんの、ウルヒよ」
 ナキアは垂れ気味の胸を張って、なんとなく威厳を見せてみた。
「あれはユーリがカイルの上に乗っかっておるからじゃ。カイルの尻が見えぬのはそのせいよ」
 平然とナキアは言ってみたものの、男女の交わりのなかにあのような形があるとは知らなかった。
 妖しげな薬を作っても、巧みな手腕でシュッピルリウマ帝に召されるよう努力してみても、そこは恋を知らないまま十四歳で嫁いできたおかげで、愛し合うことの何たるかは判らなかったナキアの、乙女のままの純粋な心だったと言えようか。
「まああ! 姫さまっっ! 陛下が皇妃さまを押し倒されましたわ!!」
 卒倒寸前のヒネモスが、ナキアのスカートの裾をいまにも引きちぎらんばかりに引っ張って叫んでいた。ヒネモスにとっても初めての光景だったのだろう。
「これでは『頭隠して尻隠さず』ではございませんね。頭は見えてます」
 意外にもウルヒは冷静だった。懸命に顔色を変えまいとしているナキア、顔を真っ赤に染めて興奮するヒネモスを目尻において、淡々としている。
 一方、寝所を覗かれているとも知らぬ皇帝夫妻は、幸福の絶頂にあるらしく、特に皇妃の声は甲高くなっていく。
 やがて尾を引くようなその声が収まると、皇妃は皇帝の胸に顔をうずめて、肩で息をしつつも呼吸を整えようと務めているようだった。
 まばたきの一つしないでその光景を見つめていたナキアとヒネモスは、一息つくと胸のうちに安堵感が広がっていくのを感じた。
 繰り広げられた光景は、二人にはあまりにも刺激が強すぎた。
「ヒ、ヒネモス、おまえ、顔が赤いぞ」
「ナキアさまこそ、真っ赤ですわ…」
 夜目にも紅潮していると判る二人は、寝所から聞こえた更なる皇妃の声にわが耳を疑った。
「ねぇ、カイル…もう一回…」
 なんと皇妃は、皇帝の胸に指を這わせ、腰をくねらせ、甘い声で次をおねだりしているではないか。
「女から誘いをかけるとは…なんという恥知らずな娘だ…」
 ナキアはよろめいた。数々の修羅場を潜り抜けてきたナキアでも、自分からあんなふうに誘ったことはなかった。
 ナキアのしたことと言えば、薬を盛ってシュッピルリウマを誘惑したことや、皇帝のお召しを伝える役人が他の妃のところへ行こうとしているのを魔の水で自分のところに呼び寄せたくらいで、一夜の情事も一度きり、そのあとは自分の部屋に帰るのが習いだったし、あんな甘い声を出したこともなかった。
 それでもここへわざわざ忍び込んできた当初の目的を思えば、ウルヒによくよく仕込むことを忘れてはならず、ナキアはよろめく身体をヒネモスに支えてもらいつつ、傍らのウルヒを見た。
 皇帝夫婦はすでに更なる興奮に身を任せており、例によって皇妃のあられもない声は容赦なく聞こえてくる。
 それでいてウルヒは、動揺を隠し切れない女二人とは違い、しれっとした顔で一部始終を眺めていた。
「さすがウルヒじゃ…頼もしいのう。どうじゃ、少しは判ったかえ?」
 珍しく、ナキアがウルヒに優しく問い掛けたとき、ウルヒはぼんやりとこちらを向いた。
「ええ、夜は静かにしないといけないと死神博士はおっしゃってましたのに、国を治める皇帝陛下ともあろう方が騒がしくしていてはいけませんね」
 これは異なことを、と驚くナキアの耳に、さらに衝撃的な言葉が突き刺さった。
「ところでナキア姫さま、皇帝陛下と皇妃陛下は何をなさっておいでなのです?」
「………………」
 一体、何のために苦労してやってきたのか…ウルヒの「記憶」は想像していたよりもはるかに備わっていなかったらしい。
 ――とんでもないお荷物を持ってしまったものじゃ…
 ナキアがヒネモス相手に晩酌しながら愚痴るのは、そう遠い日のことではない。


                   (おわり)

      

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