おまえ百までわしゃ九十九まで

                               by千代子さん


「わぁ、かわいい!」
 浅草の仲見世を覗いていたユーリは、簪屋の軒先に飾られていた黄楊の櫛を思わず手にとって、感嘆の声をあげた。
「どれ」
 背中越しに覗いていたカイルだったが、ユーリがあまりにもとろんとした目で櫛を眺めているものだから、そっと取り上げてしばらく眺めていたのだが、懐から銭入れを取り出すと、
「もらおうか」
 と店の親爺に渡した。
「え?」
 ユーリは驚いたような、だがそれでいて嬉しそうな顔をしてカイルを仰ぎ見た。
 代金を支払って親爺から櫛を受け取ったカイルは、ユーリの頭に挿してやりながら、
「大事にしろよ」
 と形のよいユーリの白いうなじに唇をあてた。


 江戸城の主、将軍カイルの寵姫であるユーリは、日課のようにカイルと一緒に城を抜け出しては城下を歩いていた。
 これはカイルがまだ世継ぎとして国許にあるときからの習慣だったから、ユーリは傍に上がったあともためらうことなく付き従っている。
 ユーリも部屋の中に篭っているよりは青空の下を歩くほうが性に合っていた、ということもあろう。
 ユーリは日本橋の商家出身の中臈だったから、江戸の賑わいは大好きで、カイルとともに出歩くときは仲見世の多いところに行きたがった。
 今日、江戸城から少し離れた浅草に来たのも、ユーリが仲見世を見たがったからで、実家にいた頃よく母親と出かけていたはずのところにどうして行きたがったのか、と訊ねられれば、やはりカイルと一緒だから、と答えるだろうとユーリは考えている。


「そんなに気に入ったのか」
 褥の中で、ユーリはカイルと向かい合わせで抱きしめられ、その腕に頭を預けながら、嬉しそうに笑って枕もとに置いておいた櫛を胸に押し抱いた。
「だって、初めて買っていただいたものだし…」
 日ごろ江戸城の奥に住まっていれば、一言ものを言えばすぐに取り揃えてくれる侍女たちに囲まれており、ユーリはものをもらってこんなに嬉しい、という気持ちを久しく忘れていた、と思う。
「そんなもの、いつでも買うてやるのに」
「いいえ、いつでもなどとは申しません。今日、上さまが買ってくださったこの櫛が、わたしにとって大切なのですから」
 ユーリは両手で包んだ櫛を、まるで赤子を抱くように愛しそうに抱いて、
「ずっと大切にいたします」
 と白い歯を見せて笑った。
 カイルはそんなユーリを見つめるうち、愛おしさが身体の奥底から湧き上がってくるのを覚え、そっとユーリの手から櫛を取り上げるとその白い華奢な身体を仰向けに横たえた。
 両手で顔を包み、唇を重ねて囁く。
「わたしのことも、大切にして欲しいものだが…」
「まぁ、上さまったら…」
 こんなに愛しく思うておりますのに、と言いながら、ユーリはカイルの首に抱きついた。
 ふわりとカイルの身体から、愛用の伽羅が匂いたつ。
 ユーリは日ごろ親しんだ香りに満たされながら、身体ごと深いところへ落ちてゆくような思いにとらわれ、カイルの愛撫に全てを委ねていった。


 ぼんやりとした意識のどこかで、肌が冷ややかな空気に触れるのを感じた。
 汗をかいた身には心地よく、とろとろと眠りにつこうかとしたとき、ユーリは誰かが髪を梳いてくれているような感覚を覚えた。
 ああ、朝のお寝梳きかな、とはっきりしない意識の中で考えながら、仰向けのまま身体を布団に鎮めていたが、そっと頭を大きな手で横向きにずらされ、ユーリは目を開けた。
「……上さま…」
「まだ寝ててかまわないぞ」
 言いながらカイルはユーリのまだ未処理の片側の髪を、黄楊の櫛で梳ってやった。
「…ずいぶん乱してしまったな…すまない」
 言葉の意味を図りかねて、ユーリはつい恥ずかしくなってうつむいてしまった。
「こら、頭を動かしてはきれいに出来ないだろう。せっかくきれいな黒髪なのに」
 カイルはユーリを抱き寄せると、一層丁寧に櫛を動かした。
「…知っているか?」
 逞しいカイルの胸に顔をうずめ、芳しい香りに満たされていたユーリは、そっと顔を上げた。
「黄楊は長らく使い続けるとよい飴色になるそうだ。…ユーリ、この櫛がそのような色になるまでわたしの傍にいてくれるか?」
 ユーリは恥ずかしさと嬉しさで頬を染めながら、
「どうぞずっとお傍においてくださいませ」
 と、はにかんで頷いた。
 黄楊櫛は親子三代で使ってよい色になる、と聞いたのは実家のお母っつあんにだったかしらん、と思いながら、ユーリはカイルの腕に身を委ねていった。


              (おわり)

        

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