女神:後編


                                by仁俊さん

     第二章“シン”

「このままではヒッタイトは滅びるぞ!」
 前皇帝の弟、シン・ハットゥシリは怒りと焦燥に胸を焼かれる思いであった。
 彼が嘆くのも無理は無い。
 現皇帝ムルシリ3世は明らかに自国よりもアッシリアの国益を優先させる政策をとっている。
 鉄は無制限に輸出され、藩属国ミタンニの領土まで与えてしまう始末だ。
 現在はまだヒッタイトの方が実力は上だが、この様子ではやがてアッシリアに併呑されてしまいかねない。
「そうですわね。時間の問題でしょう」
「誰だ!?」
 どこか聞き覚えのあるような若い女の声にギョッとして振り向く。
 そこには彼の亡き母ユーリの衣装を身につけた小柄な女性が佇んでいた。
「母上?・・・いや、そんなはずはない」
 彼女はわざと薄暗い場所に立っているらしく、よくわからないが髪の色素はかなり薄めで、瞳の色もシンの母と同じではないようだ。
「イシュタル様と見間違えてくださるなんて光栄ですわ、殿下」
 驚くシンを見て無邪気に喜んでいる、その仕草に見覚えがあった。
 皇族出身の大神官を父に持つ彼の元婚約者、プドゥヘパである。
 いざ結婚というときに政変が起こってシンは失脚し、縁談は無効になった。
 その後、神殿に仕える身となった彼女とは何年もの間、音信不通になっていたのだが・・・。

「プドゥヘパ!何故お前がここに?」
「まあ、失礼ね。愛しい殿下が私を必要となさっていると聞いて、馬を飛ばしてやって来てあげたというのに」
 すぐにプンプンと怒り出すところは以前のままだ。
 それにしても神殿に仕えるようになって少しは大人しくなったかと思いきや、その神殿を抜け出して馬に乗ってやってくるとは!

 ところで今、他にも何か妙なことを口走っていたような。
「ちょっと待て。誰が誰を必要としているだって?」
「殿下が私を。でなきゃ誰が来るもんですか」
 ポンポン返す口調も以前と全く変わっていない。
 美しく成長した外見とは異なり、中身は少しも変化していないようだ。
「私がお呼びしたのですよ、殿下」
 放っておくと痴話ゲンカが始まってしまいそうな雲行きに、見かねて口をはさんだ長身の男。
「ダ・アー!・・・お前か、この女を連れてきたのは」
 若くして亡くなった兄皇子ピア・ハスパスルピの親友、ダ・アーである。
 今のシンにとって腹心と呼べるのは、この男をおいて他にいない。
「御意。ですが“この女”とはあんまりですな、殿下」
 にやりと顔を歪めて苦笑するダ・アー。
「我々に協力してくださる大事なお方ですぞ。このたび太陽神殿の上級神官となられたプドゥヘパ様でいらっしゃいますからな」
「えっへん!」
 腰に手をあて、ふんぞり返ったポーズのプドゥヘパ。
 それが目に入らないほどシンは仰天していた。

 ウルヒ=テシュプ(ムルシリ3世)を追放してシンが皇帝になるためには国内の有力者の支持と軍隊の協力が必要なことは言うまでもない。
 この方面に関しては数年前までガル・メシェディを務めていたシン自身の人望もあり、また現皇帝の政策に対しては不満を抱いている者の方が少ないくらいであったので味方を見つけるのは割合簡単だった。
 だが、それだけでは不十分だ。
 ムルシリ3世の支援によって勢いを増しつつある隣国アッシリアの干渉を防ぐためには、かつての大国バビロニアの協力が不可欠なのだ。
 そのための取引の材料となるのは、もちろん鉄である。
 たとえシンの軍勢が首都を制圧し国土の半分以上を手に入れたとしても、鉄の生産地である太陽神殿の街アリンナがムルシリ3世の手の内にあっては勝利したことにはならない。
 アリンナで生産された鉄は一旦太陽神殿の管理下に置かれ、皇帝と皇妃の祝福を受けたのちに必要な分量だけ各所に配分される。
 よってシンとダ・アーはどうしても太陽神殿の神官たちを味方につける必要があり、そのための協力者を探していたところへ名乗り出たのがプドゥヘパだったというわけだ。

「・・・冗談だろう?」
 まだ呆然としているような口調で問い掛けるシンに対し、
「事実でございます」
 にべもない返答をするダ・アー。
 態度からして、彼自身も信じられずに何度も確認を取ったに違いない。
 太陽神殿の大神官は本来タワナアンナが務めることになっているのだが、皇太后ダヌヘパは幽閉されたままだ。
 現在の実権は少数の上級神官の手に委ねられている。
(このお転婆娘がヒッタイトの運命を握る1人だというのか?)
 シンは頭痛がしてきた。

「ねぇ殿下、私の手が必要でしょう?」
 誰に教わったのか、妙に色っぽく上目遣いで迫ってくるプドゥヘパ。
「ま、まあな」
 戸惑いつつも、ちょっとばかり心を動かされるシン。
 久し振りに打ち解けた感じの二人をニコニコと眺めながら、ダ・アーは付け加えた。
「プドゥヘパ様のお母上は皇太后陛下の侍女としてわが国へお越しになった方ですし、バビロニアとの交渉にも一役買っていただけるのではないかと」
「待て。コイツにそんな重大な役目を幾つも負わせて大丈夫なのか?」
 ダ・アーに戦略の再考を促そうとするシンの態度にプドゥーヘパが抗議した。
「失礼ね!ちゃんとやってみせるわよ」
「危険だぞ?」
 チラリと本音を覗かせるシン。
「嬉しい・・・私の身の安全を心配してくれているの?」
「当たり前だ!」
 照れ隠しでソッポを向いたシンの首に思わず抱きつき、満面の笑みを浮かべるプドゥヘパ。
「大丈夫よ、ヘマなんてしません。私たちの結婚が懸かっているんですものv」
「へっ!?」
 一瞬の空白がシン・ハットゥシリの頭の中を埋め尽くした。

「・・・おい、ちょっと待て。いったい何の話だ?」
 しがみついているプドゥヘパを何とか押しのけ、ダ・アーを問い詰めるシン。
「お二人のご婚儀について、ですが・・・まだお話しておりませんでしたでしょうか?」
 わざとらしく、とぼけた口調で答えるダ・アー。
「初耳だ!」
 動揺しているシンの気持ちを宥めるように、ダ・アーは淡々と説明を始める。
「プドゥヘパ様には、これからイロイロと動いていただかなくてはなりません。我々との連絡も緊密に行う必要がありますしバビロニアとの交渉についても同じ事が言えます。
結婚準備のためという大義名分があれば、多少目立つことをしても大丈夫でしょう。
お二人のご婚儀は我々の計画にとって絶好の隠れ蓑になるのです。それに、皇帝となる方には皇妃が必要です。皇族出身のプドゥヘパ様なら立后に反対する者もあまり居りませんし・・・殿下、そろそろ年貢の納め時ではありませんか?」
 最後の方は説明というより説得のような気もしないではない。
「し、しかし・・・」
 意外な事の成り行きに、戸惑っているシン。
「殿下は、私がお嫌いなの?」
 突如発せられた真剣な声に振り向くと、ウルウル状態の瞳が彼を見つめていた。
「え?・・・いや、そういうことではなくて、だな」
「はっきり言って!」
 憎からず思っている女性から、このように迫られて逃げ切ることのできる男はあまり多くない。
 ヒッタイト帝国の皇帝と皇妃になる運命を持った二人の久し振りの顔合わせは、プドゥヘパの圧勝であった。



     
第三章“ダ・アー”

 皇帝への即位式を翌日に控えて、皇子シン・ハットゥシリは腹心の策士ダ・アーと2人だけの祝杯を上げていた。
「何もかもお前のおかげだ、ダ・アー。感謝しているぞ」
「何を仰いますやら。すべては殿下、あなた様とプドゥヘパ様のお力によるものです」
 そう、確かにプドゥヘパの活躍は予想以上のものがあった。

 彼女は2人が思っていたより何倍も神殿内では人望があったようで、プドゥヘパが説得にかかると太陽神殿の神官たちのほぼ全員が即座にシンを支持することに同意してくれた。
 バビロニアの援護をとりつける仲立ちとしても彼女は活躍し、シン本人の人気も相俟ってクーデターは呆気ないほど簡単に成功してしまった。
 ムルシリ3世は権力の座から追い落とされ、ただのウルヒ=テシュプとして流刑地に送られた。
 まさに思い描いた通りに物事は運び、理想的な結果が導き出されたのだ。

「殿下、あの方を大切になさいませ。あの方はあなた様を、いや、これからのヒッタイト帝国全体を安寧に導いてくださる女神ですぞ」
「あれが女神?」
 大して飲んだ様子もないのに酔ったようなことを言うなと茶化すシンに対して、ダ・アーは更に続けた。
「そうです、女神です。ヒッタイトの皇妃は女神でなくてはなりません。女神として崇め、育てるのです。プドゥヘパ様は確かに今はまだ少し子供っぽいところもあるかもしれませんが、やがてはあなた様の母君イシュタル様のようになれるだけの資質を持った方でいらっしゃいます。ヒッタイトが繁栄するも衰退するも、皇妃次第なのです。これから帝国を治めていかれるにあたって、どうか、このことをお忘れなく」
「わかった、わかった」
 いつになく真剣な口調で話すダ・アーに気圧されて、シンは頷いた。
「大切にするとも。あのじゃじゃ馬を歴史に残る悪女などにしたくはないからな」
「だ・れ・が、じゃじゃ馬ですってぇ!」
 いきなり飛び込んできたのは勿論、話題の主プドゥヘパ。
「うわっ、お前聞いていたのか?」
 慌てるシンに比べてダ・アーは動じた様子も無い。
「聞いておりましたわよ、殿下。大切にしてくださるんですってねv」
 プドゥヘパは、もうごきげんである。

 ・・・そして、いつのまにか2人っきりだ。
 ダ・アーに図られたな、とシンは思った。
 そういえば結婚を決めたときも、こんな調子で彼の策に嵌った気がする。
 恐るべき策士、ダ・アー。
(ヤツが政敵じゃなくて本当に良かった)
 プドゥヘパと戯れ合いつつ、シンは心の底からそう思った。



 この後、皇帝ハットゥシリ3世となったシンはバビロニアと攻守同盟を結び、さらにエジプトのラムセス2世との平和条約締結に着手することになる。
 外交戦略の成功によってアッシリアの勢力伸張を最小限に抑え込んだヒッタイトは以後数十年の間、太平を謳歌することができたという。
 “皇女がエジプトに嫁ぎラムセス2世の王妃となった”と記録にあるのも、この平和戦略の一環であるらしい。

 しかし“これら歴史的偉業の影でダ・アーなる人物の暗躍があった”などということは多分、どこの歴史書にも書いてないと思う。
 おそらくは、某少女漫画の番外編にも。


              (おしまい)

    
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