月下美人
「なんとあでやかな・・・」
皇帝の口からため息に似た言葉がもれた。
姫は優雅に頭を下げた。
高く結い上げた髪に飾られた宝玉が、赤々と燃やされたかがり火にきらめく。
ゆったりと微笑みを浮かべながらも、姫の胸は高鳴った。
噂には聞いていた。
父が長官を務める地方にも、この国を統べる皇帝の評判は、まるで見聞きするように伝わった。
すらりとした長身で、誰もが見ほれるような美貌。
あふれる才気、指導力。
侍女達が口にする言葉を聞くたびに、姫はその姿を描いて胸をときめかせた。
陛下にお会いしたい。
交易の要所に位置するが首都からは遠く離れた街の豪奢な館の中、想いは募った。
娘の真摯な言葉に、長官は年始の慶賀に娘を同行する。
鄙育ちと侮られぬように、財力を誇示した身支度をさせて。
『しかし、覚えておいで、娘や』
長官は娘の姿に目を細めながらも言う。
『陛下は皇后陛下以外の女人をそばにお置きにはなられない』
『なぜですの、お父さま?』
流行の先端を行くドレスの裾をつまみながら姫は尋ねた。
『陛下のような地位のお方が、側室をお召しにならないなんて』
言ってから頬を染める。
そばに召されたいなどとは、胸の内で秘かに暖めた夢に過ぎないのに。
『皇后陛下は女神でいらっしゃる。それになによりも、陛下は皇后さまをなにものにも代え難く愛しておられるのだよ』
それでは、その女神さまがどのようなお方なのか、この目で確かめましょう。
姫は、きりりと痛む胸を押さえながら考える。
磨き上げられた青銅に映る姿は、姫の口元に自信の笑みを浮かび上がらせる。
大きく開いた胸元には、軽やかな金の絡まる胸飾りが連なっている。
きつく結い上げられたウエストとは対照的に、腰から下は柔らかな布の流れ。
重なる薄布は、女らしい身体の線を見え隠れさせる。
私はこんなにも美しい。
夢を見ることが間違っているなどと誰に言えるのだろう?
堅苦しい式典のあとは、賑やかな宴がある。
端近の席で仰ぎ見た皇帝の姿は姫の胸を突いた。
この方だわ。
組んだ指が白くなるほどに力を込める。
この方こそが、心に決めたお方だわ。
胸の鼓動を押さえようとしながらも、それでも視線は皇帝に並ぶ姿を探した。
この方に並ぶのは、いったいどのような。
女神とたたえられる皇后は、ほっそりとした身体を、玉座にうずめるように腰掛けていた。
透き通るきめの細かな肌がここからも見て取れる。
奏上の言葉を聞きながら、ときおり伏せた睫毛が揺れた。
淡い色をした唇が、慶賀の言葉にほころんだ。
あたりに花が咲くようだと思った。
精緻な象牙と珊瑚の細工のように皇后は美しかった。
喉の奥に、熱い塊がこみあげる。
嫉妬が、息を詰まらせる。
女神は、美しい。
それでも、姫は宴に踏みとどまった。
父の後に続きながら、会釈と微笑みを繰り返す。
ときおり、賞賛の声があがる。
私だってこんなにも美しいはずなのに。
声をかけられたのは、偶然ではない。
父は要職についている。
皇帝は直にねぎらいの言葉を与える。
「本日は、娘も御前にお目通りをと・・・」
父の言葉に、恭しく裾をつまんだ。
「なんとあでやかな・・・」
頬が染まるのを隠すことが出来ただろうか。
皇帝の視線が、うなじから胸元に滑るのを感じた。
皇帝のそばに、皇后はいない。
広間に宴の場所をかえてから、皇妃の姿は皇帝のかたわらにはなかった。
おそらく衣装を替えているのだろう。
陛下だって殿方には違いないのだと、姫はのぼせかけた頭で考える。
「ハットウサは気に入られたか?」
皇帝の言葉が直接かけられる。
与えられた栄誉に答えようとして、喉からはかすれた声がもれるだけ。
「なにぶん、田舎育ちなもので」
父があわてて取り繕おうとしている。
「それは、国元の衣装なのか?」
構わず皇帝は言葉を続けた。
確かに興味が向けられている。
「いえ、これはバビロニアから腕の良い仕立て師を雇い入れまして、一番の流行ものを、と」
「ああ、そうか」
皇帝の次の言葉を待たずに、広間の入り口にざわめきが起こった。
人だかりが割れて、女官を従えた姿が見えた。
皇后は堅苦しい衣装から、華やかな装いに姿を変えている。
広間の明かりが一段と輝きを増した。
皇帝は、姫に背を向けると皇妃の方へと踏み出した。
その背中を見送りながら、姫は瞳が潤むのを感じた。
その時、皇帝が従う侍従に素早くなにかささやくのが見えた。
侍従が振り返り、こちらを見る。
息が止まりそうだった。
滞在中の屋敷を使者が訪れたのは夜半のこと。
柱の陰で応対する父の言葉を聞きながら、姫は頬を濡らした。
まるで一夜咲く花のような、儚い夢。
「とても綺麗だ」
皇帝がため息とともに重なる布に指を走らせた。
「バビロニアの仕立屋は腕が良いな」
「でも・・・なんだか恥ずかしいよ」
開きすぎた胸元を引っ張り上げながら、皇妃はつぶやく。
「大胆すぎない?」
「そんなことはない、とても似合っている。これに合う胸飾りを作らせないとな」
言いながら満足そうに皇帝は愛妃を腕に納めた。
「絶対、お前に似合うと思っていた」
それから含み笑いをする。
「いっそ、仕立屋を召し抱えようか?」
「・・・その、なんとか・・って長官のお抱えなんでしょう?取り上げるなんて、暴君だよ」
「寵姫に溺れた皇帝というのはいつの時代も暴君だな」
「カイルったら!」
皇妃は、胸に忍び込もうとする手のひらをつねった。
「あたしが同じ服着てたら、お姫さまだって嫌な気になるでしょう?」
「どうせ、もうハットウサからは出て行くだろう?単なる物見遊山らしいからな」
阻まれた手のひらは未練がましく鎖骨のあたりの肌を撫で回している。
「・・もう!」
皇妃が立ち上がろうとしたとき、薄布の重なりだった裾が割れて、すらりとした脚が覗いた。
皇帝の腕が、もう一度皇妃の身体を引き戻す。
「・・・やっぱりダメだな」
皇帝は顔をしかめると、姿を現した膝に手を伸ばした。
「なにが?」
「この衣装だ・・・扇情的すぎて、他の男の目に触れさせるのはもったいない」
「・・・勝手ばっかりね!」
怒った口調とは裏腹に、皇妃はゆったりと腕の中に身体を預けた。
かわいそう
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