欲望のレイン


「あ・・・」
 ぼたりと頬に当たったしずくに空を見上げる。
 ここまで保ったのが不思議なぐらいに、空は暗く澱んだ色をしてたれ込めていた。
「・・・強くなるのかしら」
 ユーリはつぶやくように口にする。
 道は舗装されているわけでも踏み固められているわけでもない。
 草原の中をただ、ところどころ途切れながら東に続いている。
 二人は追っ手を避けるように、街道から外れた道を進んでいた。
 もちろん宿などあるはずもなく、満天の星の下が二人のしとねだった。
 幼い頃より、帝国内の風土や気候のことは教え込まれている。
 左手に広がる深い森と、右手に続くなだらかな丘を見上げながら頭をめぐらせる。
「たぶん、このへんは水が出ると思うよ。馬では進めなくなる」
「引き返すか?それとも、先まで急ぐか?」
 鞍を並べた騎乗から、男が尋ねる。
 この国では異邦人に過ぎない彼は、ユーリの言葉を良く聞き入れた。
 連れて逃げているのはどちらなのだろう。
「・・・進めば、街があるかも知れない」
 もうだいぶと東のはずれまで来ているはずだった。
 追っ手がかかっているのか、そうでないのかは分からない。
 辺境の街とはいえ、数代前の皇帝の治世で帝国内の通信網は完備されているはずだった。
 どのような人相書きが出回っているのか知れたものではない。
 二人が街を避けた理由のひとつにそれがあった。
「街に出るのか?」
 男が尋ねる。
 この逃避行の主導権は確かに彼が握っているはずなのに、彼はいつもユーリに尋ねるのだった。
「・・・分からない」
 追っ手がかかることよりも、何よりも怖れていることは。
 ぼたり、ぼたりと水の固まりが落ちてくる間隔が狭くなっている。
 ユーリは頬を洗われるままに、空を仰ぎ見た。
 暗い色の空に、一瞬光が走った。
 遅れて、轟音が響く。
「雷か・・ここでは危険だな」
 とりあえず、どこかに身を寄せなければ。
「来い、ユーリ!」
 手綱を引くと男は馬首をかえした。
 強い言葉に、知らずに手綱を引く。
 何も考えずに従うだけでいいのなら、こうも迷いはしなかった。
 なのに彼はいつもユーリの手に選択権を残そうとする。
 数歩先を走る背中をにらむ。
 にらんだ瞳に雨が流れ込む。
 分かっている、彼を恨むのは間違いだ。
 これは自分で選んだ道なのだから。

 駆け込んだ森の中で張りだした岩を見つけ、その下に潜り込む。
 馬から飛び降りると、自然に互いの腕を求め合う。
 濡れて貼りついた布越しに肌の熱さが伝わった。
 叩きつける雨音と雷鳴。
 どこかで木の裂ける音がした。
「・・・神様が怒っているみたい」
 ぴたりと身を寄せ合ったまま、ユーリはつぶやいた。
「なにに対して?」
 答えられない。
 答えるかわりに唇を寄せ、生暖かな布を引き剥いだ。
 すぐに擦り合わされた肌が熱を持つ。
 互いの吐息に溺れるときだけ、背を向けてきたものが忘れられる。


「どちらにしても一度街に出ないと」
 国境の外は険しい山岳地帯で、装備を揃える必要があった。
 着替えを身につけながら、目を伏せて言う。
「別々に行動すれば、身元もばれないと思うの」
「身元ね・・」
 男が薄くわらったようだった。
 本心を見透かされているようで、唇を噛む。
「そうよ、身元よ。わたしたちが何をしてきたのか、分かっているでしょう?」
「分かっているさ」
 男は肘をついて身体を起こした。
 こぼれたままのユーリの長い髪に指をからめる。
「何をしてきたか、何を引き起こしているのか」
「・・・やめて!」
 頭を振る。
 すべてを捨ててもいいと思ったはずなのに。
 選んだのは自分で、他の誰のせいでもないのに。
 どこかに選ばせた男への恨みがある。
「街に出て、国が戦準備をしているのを知るのが怖いのか?」
 たちまち脳裏に金属の触れあう音が響く。
 逃げまどう女こどもの悲鳴。
 誰よりもそれを避けたいと願っていたのは自分だったのに。
「怖いわ・・」
 人々が駆り立てられていくのが。平和で爛熟した帝国が血で染まるのが。
「だって、わたしは・・・皇女だもの」
 男の目がすがめられる。
 なにもかも、納得ずくだったはずなのに。
 こんなことをこの男に言うのは間違っている。
「そうか・・・」
 男がごろりと背を向ける。
 背中に失望と拒絶を読みとる。
 涙があふれた。


 言葉も交わさずに、二人は発った。
 相変わらず、頭上には陰鬱な空。
 夕刻に近づく頃、低い城壁が見えてくる。
 日没と共に国境の街は閉鎖される。
 男を置き去りにするかのように、ユーリは黙って馬を一蹴する。
 すぐにねっとりと湿度をもった風が渦巻いた。
 城門を閉めようとしていた門番が近づく馬に手を止めた。
「・・・ありがとう」
 息を切らせ馬を下りながら礼を言う。
「間に合って良かったよ、野宿は辛いだろうからね」
 門番は人の良い笑顔を浮かべて、道の向こうを透かし見た。
「あんた、ひとりかい?」
「・・・うん」
 けれど夕闇の中、蹄の音が響いてくる。
 ユーリは肩をすくめた。
 門番は後から来る男のためにも門を開けておく気になったようだった。
「宿屋は一軒しかないがね、料理は旨いよ」
 出入り記録の木版を取り出す。
「それに、運がいい、いまなら旨い酒がある・・ふるまい酒がね」
「・・ふるまい酒って?」
 男がようやく追いついて、馬から飛び降りるのが目に入った。
 それを意識しないようにしながら、門番に話しかける。
「そりゃあ、先日の皇女さまとエジプト王の婚姻の祝いさあ」
 門番は笑うと、男に目をやった。
「あんた西から来たんだね、知ってるかい?なんでもえらく立派な婚儀だったそうじゃないか」
「皇女・・さまは嫁がれたの?」
 ユーリは渇いた喉から声を絞り出した。
 自分がここにいるのに、何が起こったのか理解できなかった。
「そりゃそうだろ、相手は偉大なラムセス大王だよ?国中が祝いに沸くのはもちろんだね」
 自分はよろめいたに違いない。いつの間にか肩を抱きとめられていた。
 振り返ると、男の顔がそばにある。
「そうか、婚儀は相成ったのか」
 表情のないまま、男が言った。
 嫁いだはずの皇女がここにいる。
 どうやら、ヒッタイト側は替え玉を立てたらしい。
 自分の顔はエジプト側にも知られているはずなのに。
 肩越しに思いを読みとったように、男が低く言った。
「おそらく、双方合意の上だな・・・知らぬは大王ばかりなり、か」
 男の声を聞きながら、ユーリは自分が置き去りにしてきた場所に思いをはせた。
 輿を連ねて来たエジプト側の使者にも納得のいく替え玉とは。
「・・・エイミ姫?」
 確かめる術はないのだけれど。
「あんたたち、早く宿に入った方がいいねえ。今夜も雨がきつくなりそうだ」
 門番の声が遠い。



 雨音がきつくなった。
「神様が怒っているみたい」
 同じ言葉を繰り返す。
 たった一人に犠牲を強いてしまったのだから。
「では、引き返すか?」
 闇の中で男が尋ねる。
 男の髪に指を差し入れる。今は見えない漆黒の髪。
「引き返せないよ」
 苦い思いは澱のように心に沈んでいるけれど。
「だって、選んでしまったのだから」
 きっと、この澱は生きている限り心の奥に巣くうのだろう。
 それでも、わたしは。
「わたしを連れて行ってくれるんでしょう?」
 神の怒りの届かぬ地に。
 答えのかわりに、男の腕に力が込められた。


              おわり 

      

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