バビロニアの夜

                          by 千代子さん


 ミタンニ滅亡から命からがら逃亡したマッティは、ナディアの手引きで無事、バビロニアに入ることができた。
 バビロニアに着いてもどうするかなどとは思いもつかないけれど、だがとりあえず安心したのは二人に共通する思いであったろう。
 王宮に入り、バビロニア王であるナディアの父に挨拶を済ませると、二人はいままでの緊張の糸が切れたのか、どっと疲れが押し寄せてきた。
「婿殿にもお疲れであろう。部屋を用意するゆえ、しばし休まれるがいい」
 戦火の中を命からがら脱出してきた娘に、老いた父王は優しかった。
 加えて亡国の太子であるマッティにも悔みの言葉を言いこそすれ、その身柄をヒッタイトに送ろうなどとは露ほども考えず、婿殿、と言って気遣う姿は、どこにでもいる父親の姿であった。
 今宵はささやかながら宴を開こう、という父王に、さすがにマッティは、
「亡命者に華やかな席は不似合い」
と辞退したが、ほんの内輪で、と進められ、ナディアも控えめながら頷くのでそれならば、とありがたく言葉に甘えたのであった。

 間もなく日も暮れ、湯浴みを済ませ、旅の埃を落として見違えるばかりに凛々しく貴公子然としたマッティは、ナディアよりも一足早く宴の席に着いた。
 正面の王座に構えたバビロニア王は、親しくマッティに声を掛けてくれたし、居並ぶ王族たちも優しく、マッティの苦労を労わってくれた。
 ナディアの兄弟姉妹たちもみんな親しく、盃を勧め勧めている間に、すっかり宴もたけなわになり、父王の口も酒が回ってなめらかになってきている。
「婿殿は剣よりも戦車がお得意とうかがったが、して、どのようなものかの」
 自らデキャンタを傾け、満面の笑みでバビロニア王はマッティに話し掛けた。
「…しかし戦車はもう扱えませんな。ヒッタイトが三人乗りの戦車を生み出しました。
これから状勢は変わっていくでしょうね」
 ふと目を落として、マッティはなみなみと注がれたワインの揺れるのを見つめた。
「では、もう戦車は捨てたのかね」
「…わたしには…もう相応しくありません」
 国を失った者が、どうして戦車で戦野を駆け巡り武名を上げようなどと考えられようか。
 マッティの声色に座が水を打ったように静かになったとき、
「それではいかんのぉ」
と、なんとも間延びした声が広間に響き渡った。
「婿殿、婿殿、婿殿よ。戦車に三人乗れなかったからといってなんじゃ。
たとえ三人乗れたところで笑いが取れねば意味がないではないか」
 バビロニア王がデキャンタを抱いたまま立ち上がって、マッティの頭上から唾を飛ばしつつ豪語した。
「よいか、戦車二人乗りの面白さは一人が攻撃と防御で焦るところじゃ。
右からきた攻撃をかわしたと思ったらつぎは左じゃ。
右往左往するさまに面白みがあるのじゃよ。これは芸人の基本じゃ。
常にいかなる場合でも来る敵に応対できるようにならぬと真の芸人にはなれぬ」
 マッティはぽかんと口を開けたまま、老王の演説を聞いた。
 聞いたがしかし、芸人の心得を説かれても武人のマッティにはまったく意味がわからなかった。
「三人乗りの戦車ではそれぞれが受け持つ役割が違うではないか。
それではボケならボケ、ツッコミならツッコミ、裏方は一生裏方じゃあ! 
芸に生きるものならば常にどのような芸事にでも秀でていなければならぬ。
三人乗りでは駄目なのだ…」
と最期は涙声になる王の肩をそっと叩いたのは、ナディアの弟にあたるというトゥルグ・ニラリだった。
「父上、そのとおりでございますとも。いかにボケがよくとも、ツッコミの心がわからねば真のボケとはいえませぬ。『親になってみて初めて、我が親の心がわかる』とも言いましょう」
「おお、トゥルグよ、その通りじゃ」
 老王の顔が見る見るうちに紅潮した。
「よくぞ判ってくれたのう、息子よ。よし、ではそろそろ始めようではないか。
婿殿歓迎の式じゃ。時は熟したぞい」
 その言葉に広間の者一同は喜びにどよめいた。
「おお、国王陛下のお芸も久しぶりだな」
「トゥルグ殿下の秘儀が拝めるだなんて、なんて幸運なんでしょう!!」
「それにナディアさまもお戻りになられてるのよ」
「まぁ! なんて素晴らしいの!!」
 父と息子は手に手を取って、周りの声に手を振りながら、呆然とする婿をそのままに玉座のほうへ向かった。
と、突然広間の証明が落とされた。すると闇の中から、
「レディース・アーンド・ジェントルメン!!」
「皆さま長らくお待たせしましたぁ!」
という声とともに水の流れる音がしたと思ったとたん広間に灯りが戻り、くらんだ目でマッティが見ると、滝がざぁっと音を立てて両脇に引かれるところだった。
 まるでカーテンのような、いや、あれはカーテンだ、とマッティが納得したのもつかの間、次々と目の前で繰り広げられる光景は、百戦錬磨の黒太子マッティワザが今までに見たこともないほどのものだった。
「あ、ホレ! さ、ヨレ! あ、ホレ、ホレ、ホレ!!」
 軽快な掛け声とともに水の玉が踊り始めた。
 トゥルグがそれを父王の方へ投げると、王は腰から剣を抜き、それに刺した。
 一つ、二つ、三つと次々と刺さっていくと、観客からは拍手喝采、中には感激のあまり倒れてしまう姫までいた。
 その中で、マッティはひとり呆然と口を開けたまま信じられない思いであった。
 どうしていいかも判らないまま、手にしたワインも呑むことが出来ずにいると、
「ナディアさまのお越しでございます」
との門兵の告げる声に、まさに天の声、助かったと思い振り返った。
「お待たせいたしまして相すみません。準備に手間取ってしまいましたの」
と言うナディアは、透けるようなドレスに大きな羽を背負い、幾人かの侍女を従えて立っていた。
「殿下、わたくしの十八番、ご覧になってくださいまし」
 どこからともなく細波のような音が聞こえてきた。
「おお、ナディアの十八番と言えば、…ラインダンスじゃな」
 舞台の上で水だらけになった王が懐かしそうに笑った。
「ナキア姉さまがおいでだったころはご一緒に踊りましたけど、いまは一人で不安ですわ」
 胸に手を当てて恥ずかしそうに頬を赤らめるナディアは、人妻とは思えないほど少女のようで可愛らしかった。
「なんの、姉上はどこに出しても恥ずかしくないラインダンサーではありませんか」
「まぁトゥルグったら」
 ほほほ、と笑うナディアの身体の周りから、ふわふわと泡が舞い始めた。
 マッティは頭がずきずきしてくるのを抑えながら、運命のまにまに流されるであろう自分の運命を呪わずにはいられなかった。

甘く花香り、なつめ椰子しげるバビロニア。あらゆる富と知恵を集めた世界の頂点と謳われるこの都で、日夜このような宴が開かれていることを知っている者はごくわずかだという。


                 おわり

      

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