いざ、バビロニアへ

                             by 千代子さん

「お疲れではございませんか?」

 豪風の中、巻き上げられる砂に曝しつづけ、照り返しで火照った身をようやく沈めることができたのは、日が落ち月もだいぶ傾いた頃だった。
 無機質な壁の、切り取られた窓から差し込む月の光が、頬のこけた顔に一層疲労感を漂わせているように見える。
「ここまでくればもう安心でございます。明日にはバビロニア国内に入れるかと…」
 ナディアは傍らに置いたカップにワインを注いだのを差し出した。
 無言でそれを受け取ったマッティは、ベッドの端に座ったまま、ぼんやりとうつろな目を闇の中に漂わせている。
「……」
 ――やっぱり殿下のお心は晴れやかではないのだわ。
 自然会話もなく、夜の闇がより一層濃く感じられるのは仕方のないことかもしれない。
 ミタンニが滅びたのは、つい数刻前の話であった。
 それまでは太子と崇められていた身が、いまはまったくの流人で、なおかつ前身が露見すれば命の保証もされない極めて危険な立場にある。
 彼の生命を救いたい一心でバビロニアへ逃亡を、と言ったのはほかならぬナディア自身だった。
 バビロニアはナディアの祖国であるけれど、姉ナキアの縁でヒッタイトとは縁戚であり、そのヒッタイトが滅ぼした相手であるミタンニの太子を連れて帰るなど危険極まりない選択であったが、そのときのナディアにそこまで考える余裕はなかった。
 売られるようにして嫁いだ国、しかも頼みの夫はあまたの側室を侍らせ、ただひとりだけだと言われたことなどなかったけれど、それでもついて行きたいと願ったのは彼を愛していたからに他ならなかった。
 やっと落ち着いた旅籠で入った部屋は後宮の寝室よりも狭かったが、ナディアはいままで感じたこともないほどの高揚感でいっぱいだった。
 やっとこれで、マッティが自分ひとりのものになった、と思うと、いまの身の上を忘れて自然に熱くなる頬を両手で抑えてみたりもする。
「お食事はいかがなさいますか」
 宿の親爺が用があればすぐに呼んでくれるように、と言い残して下がってからだいぶ時間が経っていた。その間、マッティはワイン以外何も口にしていない。その上、ナディアの呼びかけにもずっと黙ったままなのであった。
「…殿下」
 いかにも苦しげなその横顔を見ていると、ナディアは心臓を握り締められたように胸が苦しくなる。
 なんと悲しいこと、戦の世の習いとはいえ、敗北者にはなんとも辛い現実であろうか。
 ナディア自身もかつてヒッタイトに故国を焼き払われている経験があるから、手にとるようにその悲しみと憤りが判るだけ、おいそれと慰めの言葉もかけられないのであった。
「…少しお休みなされたらいかがでございましょう」
 ほとんど口をつけていないワインカップを取り上げ、ナディアはマッティに横になるよううながしてから、枕もとにそっと腰を下ろして、胸の前でなにか大切なものを抱くように両手を合わせた。
「よくお休みになれますように…」
 ぼんやりと見上げていたマッティだったが、ナディアの手の中からなにかが止めどもなく湧き出したのを見て、思わず身体を起こした。
「美しゅうございましょう?」
 ふわりとした、なにか柔らかいものが鼻先をかすめる。
「これは……」
 そっと手を伸ばして指先で触れると、その刹那、それは簡単に消えてなくなってしまう。
 だがナディアの手の中からは、後から後から丸く虹色をしたものが溢れ、いつしかそれは部屋中に満ちて、マッティのまわりにふわりふわりと落ちてくる。
 それは、月明かりに照らされて、とても幻想的な光景だった。
「石鹸の玉をご存知ですか?」
ナディアが歌うようにささやく。
「こうして眺めていると、心が落ち着きますでしょう?」
 昔、生母に初めて見せてもらって以来、寂しいとき悲しいとき、こうしてひとり心を慰めていたことを思い出す。
しばらく呆然と眺めていたマッティだったが、やがて目を細めてふわりと笑い、
「美しいものを見た。ありがとう」
と、ナディアの手を両手で包み込んだ。
 それはナディアが嫁いで以来、初めて告げられたマッティの礼の言葉だった。
「どうぞ、お力落としされませぬよう」
 生きてさえいればいつか必ず再興の日もありましょう、としっかり握り合う二人の手の上に、ナディアの流した嬉し涙がぽとりと落ち、その二人を包み込んではらはらと虹色の玉が舞っている。


          (おわり)

       

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