あらしの夜に



 木戸を激しく叩きつける音がして、ウルヒは詰めていた小部屋の固い寝台から身体を起こした。
 窓は固く閉ざされているが、それでもひっきりなしの水音から雨脚の強さが知れる。
 夜着に昨夜手近に脱いだマントを羽織ると、ウルヒは寝台から降りる。
 荒削りの床板が足の裏に痛い。
 音がしたのは中庭に続く木戸だった。
 まさか警備の厳重な後宮に不心得者が浸入するとも思えなかったが、それでも一応の警戒はしておこうという心づもりだった。
 いつの間にか宿直が習い性になっている。
 扉を押し開けると、ぼんやりと灯火の中に低い天井の廊下が浮かび上がる。
 廊下に面して並ぶのはさほど広くもない居室がいくつか。
 複雑な構造の後宮の片隅の廊下は使用する者も限られている。
 澱んだ空気の中に泥の匂いを嗅ぎ取って、ウルヒは眉をひそめた。
 こんな時刻に、外から入り込んできた者がいるのか。
 ぴしゃり、と足下で水が跳ねた。
 見下ろせば石の敷き詰められた床に水の帯が走っていた。
 ぬらぬらと泥を混ぜたそれは、先ほどしまった木戸から、ある方向へと続いている。
 続く先の部屋を認めたウルヒは、息を飲んだ。
 すばやくあたりを見回す。
 人気などあるはずがなかった。
 けれどもウルヒは息を殺して、閉じられた扉に近づいた。
 わずかの隙間から人の気配を伺う。
 かすかに音がした。
 予想していたこととはいえ、その気配はウルヒの心を重くする。
 腕をかけ、素早く扉を開いた。
「!!!」
 立ちすくんでいたのは部屋の主だった。
「・・・ナキアさま」
 押し殺した声でウルヒは囁いた。
 肩からマントを滑り落とす。
 後ずさろうとする身体をマントで包む。
「いったい、どうして」
 訊ねなくとも、なにが起こっているのかウルヒは見て取った。
 ナキアはぐっしょりと濡れそぼっていた。
 長く豊かな髪は重く滴をしたたらせている。
 薄い夜着は身体に張りつき、細い線をあらわにする。
「なんでも、ない」
 ウルヒから顔を背けてナキアはつぶやいた。
「少し外を歩いただけだ」
 なんのために、とは訊ねない。
 いままでに不安に思い続けていたことが、現実になったのかもしれなかった。
 ウルヒは黙ってナキアの髪を拭った。
「こんなに雨が強くなると思わなかった」
 雨が降り始めたのは夕刻だった。
 急に降られたはずがない。
 濡れるのを覚悟の上で抜け出したのだろう。
 ナキアの身につけているのは薄手の夜着一枚だった。
 誇りの高いこの人が言い訳じみたことを口にするのは辛かった。
 責めてなどいないと、どうしたら伝えることが出来るのだろう。
 濡れた髪が頼りなく指にからんでくる。
 持ち上げようとして、ウルヒの手が止まる。
「耳飾りを・・・どうなさいました?」
 左の耳で揺れる繊細な細工のそれはナキアが母国から持ってきたはずのものだった。
 後宮の女性から秘かに羨望を集めていたそれは、飾るはずの右の耳朶にはない。
 ナキアは狼狽し、耳に手を当てた。
「・・・落としたんだわ」
 一瞬辿ってきた道を思い浮かべるように、ナキアの視線が泳いだ。
 次の瞬間、ウルヒは身体を翻していた。
「ウルヒ?」
「探します」
 廊下に出て木戸を押し開く。
 たちまち横殴りの雨が襲いかかる。
 あとで床を拭かなくては、と思いながらウルヒは水瀑の中に踏み出した。


 眼に降り込んでくる水を拭いながら、ウルヒはまっすぐにそこへと向かう。
 中庭を横切り、前栽を抜ける。
 後宮の片隅のナキア妃の部屋から、一番王宮に近い豪華な部屋のそばへと。
 彫刻のある柱に囲まれた窓の下に。
 巡回の兵士がいない今夜だからこそ、ナキアが忍んでいったのだろう場所へ。
 窓の中に眠っているのはこの国の最高位の女性だった。
 窓の中をのぞき込んでみたい衝動を抑えて、ウルヒは泥の中に膝を着いた。
 庇からひっきりなしに落ちてくる水の中を這うようにして探る。
 ナキアは、ここにいたはずだった。
 この殴りつける雨の中、窓の中で安穏と眠る女性に怒りに近い憎しみを燃やしながら。
 怒りと憎しみが形になる日が来るとは思いたくなかった。
 けれど、誰かがそれをやらなければ、ナキアが口にする言葉など実現は難しかっただろう。
 望みをかなえると口にしながら、一度も行動を起こさなかった自分をウルヒは呪った。
 爪の間に泥を入り込ませながらウルヒの指が目的のものを探り当てる。
 安心すると同時に、悲嘆がウルヒを襲った。
 とうとう、ナキアはこの窓の下に立ったのだ。
 ウルヒがするべきはずのことを、自らの手で成し遂げるために。
 ここ以外に思い当たる場所はなかったが、それでも決定的な証拠を見つけたくはなかった。
 どこかで否定したかったのかも知れない。
 ナキアの怒りが、具体的な形を取ることに。
 それが彼女を追いつめた。
 稲妻が走る。
 ウルヒの手の中で小さな耳飾りが光った。

 ウルヒの差し出したそれをナキアは黙って受け取った。
「お休み下さい」
 ウルヒは静かに言う。
「あとの始末は私がしますので」
 泥のついた床を清め、ナキアが脱ぎ捨てた夜着を処分する。
 他にするべき事はあるだろうか。
「どうぞお休み下さい」
 雨に打たれたために血の気のひいた白い頬を見つめる。
 手を伸ばして、抱きしめたい。
 けれど、それは自分の拒んだこと。
 明日になれば、後宮には騒ぎが持ち上がるだろう。
 朝、室内に入った女官が発見する。
 この国の最高位につく女性の変わり果てた姿を。
 後宮の片隅で秘かに怒りを燃やす側室のことを疑う者がいるだろうか。
 証拠は何もない。
 ふたたび揃って揺れる耳飾りを見ながらウルヒは思う。

 排除したところで、これからの道が開けたとは思えない。
 疑われることすらない側室の一人だからこそ、これからの方が困難なのかもしれない。
 けれど、もう引き返す気など無いのだから。
 同じようにこれからも排除が必要なのかも知れない。
 けれど、もうナキアを冷たい雨の中へ一人送り出す気はない。
「ご心配なさらずにお休み下さい」
 ウルヒは微笑んだ。
 咎めも責めもなく、ただ受け止めるように。
 爪の間で泥が固まる。
 一度汚してしまえば、なんでも出来る気がした。
「明日になれば、雨も止みましょう」


 雷鳴が遠くに轟く。
 雨はいまだ止む様子がない。


           おわり 

      

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