その姫、バビロニア出身につき(後編)

                             by千代子さん


最終章 乙女、ハットゥサに臥す


「まったく、冗談じゃないわっ!!」
 イシン・サウラは部屋に戻るなり、怒りに任せて首飾りをちぎり放り投げた。
「やっぱり無能な皇家の娘よね。あんなおばかなことをしたら、陛下はますますイシュタルをかばうじゃないの!」
 当初の思惑とは違い、イシン・サウラにとって今夜の宴ほど敗北感を味わったものはかつてなかった。
 イシン・サウラ曰く「ヒッタイトの田舎貴族の娘たち」は、皇帝の寵姫ユーリの服にいたずらをして公衆の面前で大恥をかかせようとしたのだが、それは返って皇帝の同情を引き、正妃候補の姫たちを蔑視してしまう結果を生んだ。
「せっかくわたくしの秘儀をお見せしようと思っていたのに…」
 イシン・サウラはユーリが踊り終えた後の宴の光景を思い描いていた。

「ほかに、なにか余興はないか」
 皇帝が頬に笑みを浮かべてあたりを見回すと、うっすら桜色に染まったイシン・サウラと目があった。
「姫はいかがか? お得意のものを拝見いたしたい」
「恥ずかしゅうございますわ、陛下のおん前でなど…」
「よいではないか、所望いたす」
「では…お目汚しではございますけれど…」
 イシン・サウラはゆっくり立ち上がると、皇帝の前に進み出、丁寧に挨拶をする。
その作法に目を細める皇帝を横目で眺めつつ、イシン・サウラは広げた両手からさらさらと水を流した。
広間の灯りに照らされた水は虹色に光り、面白いようにイシン・サウラの身体を這う。
胸の前で両手を抱き、手を合わせて伸ばしたとき、皇帝の大きな掌がそれを包んだ。
イシン・サウラは突然のことに驚いたが、琥珀色した皇帝の瞳に真っ直ぐ射すくめられ、うっとりとしていると、皇帝が優しく囁く。
「今宵、わたくしの部屋へ参られよ」
 それはイシン・サウラにしか聞こえないような小さい声であったにも関わらず、広間にいた者全員に聞こえたらしく、どよめきが聞こえた。
「やはり、サウラ姫さまにはかないませんわ」
「あのお方がご正妃さまとおなりあそばせば、まことよいご夫婦になられるでしょうね」
「ほんとうに。悔しいけれど、とってもお似合いのお二人ですねぇ」
 皇帝は手をそっと外すと、イシン・サウラを軽く抱き寄せてすぐに身体を放した。
「続きは後で」
 イシン・サウラは会場中の視線を一人集めている。
 それはいままで経験した以上の、めくるめく快感であった。

   ………………………


「くやしぃ〜〜〜!!! わたくしがイシュタルなんぞに負けるなんて〜〜〜!!!」
「…涎をたらしてそんなことをお考えになられているから、せっかくのチャンスを逃すのです。だいたい姫さまにお手から水を出す高等技術はできませんでしょう。…ああ、今日のことが父上さまに知れたら…なんとお嘆きになられることか…」
「きぃぃぃぃぃぃっ!!」
 ベッドシーツを噛みしめて、反乱狂になって叫んでみても、心のもやは取れない。
「せっかくお気に召してくださると思っていたのに…」
 初めて味わった屈辱で、身体が震えている。
「でも姫さま」
 涙を拭い取るよう手拭を差し出して、侍女はそっと肩を抱いた。
「さすがに…あの芸はお見せできなかったのでは…」
「あら、そんなことはないわ!」
 イシン・サウラは、突然泣き止んだかと思うと、ベッドに仁王立ちになって胸を張る。
「あれはナディア伯母さまのご夫君マットゥワザ陛下もお褒め下さったものですもの。そんなことはないわ」
「…はぁ」
「それよりもなによりも、侍女や、わたくしは口惜しい!」
 また泣き始めたイシン・サウラの背を優しくなでてやりながら、侍女はなんとなく心が晴れない思いであった。

 翌朝、後宮に激震が走った。
 イシン・サウラとともに正妃候補の一人とされていたヒッタイト皇家のアクシャム姫が何者かに殺された、というのだ。
「姫君さまのご身辺も警護させていただきます」
 何人かの兵士たちがイシン・サウラの周囲に配されたが、サウラ自身は大したこととも受け取っていなかった。
 ハットゥサには伯母ナキアもいるし、生臭い殺人事件など自分には関係のないこと、と思っていた。
 だから侍女に、
「恐ろしゅうございますね、伯母君さまのおん宮に行かれたほうがよろしゅうございませんか?」
と勧められたときも一笑して聞き捨てたほどであった。
 そんな中、呑気にお茶を飲みながらあてもなく持参したパピルスをめくっていたとき、扉の向こうが急にあわただしくなった。
「なんの騒ぎでしょう、見てまいります」
 侍女がいそいそと立って扉の向こうに消えたが、すぐに青ざめて帰ってきた。
「落ち着いてお聞きくださいませ」
 と前置きしてから、
「皇家のウーレ姫さまが、ただいま中庭の池でご遺体で発見されました」
 と低い声で告げた。
 とたんに部屋にいた幾人かの侍女が眉をひそめて声を上げたが、イシン・サウラは見事とも思えるほどしらっとした顔で、
「あら、そうなの」
と再びパピルスに目を落とした。
「姫さまにも、むやみやたらと部屋の外へお出にならぬよう、お言付けでございます」
「外へねぇ……」
 誰にともなくつぶやいた、ちょうどそのとき、扉がたたかれた。
 侍女がそっと開けると、使いらしい女が手をついていた。
「皇帝陛下よりのお使いでございます。連日の事件により、姫君さまご不安でございましょう。しばらくのんびりお心休めされますよう、これよりおいでいただきたく」
「まあ、陛下が!」
 イシン・サウラの顔がぱっと明るくなった。
「して、どちらへ伺えばよろしいのでしょう」
 いくら陛下のお言葉でも、ただいま外に出たら危のうございます、と引き止めようとする侍女にかまわず、身を乗り出してイシン・サウラは詳しくその対面の場所を聞いた。

 後宮の裏庭の向こうには鬱蒼と茂る森が広がっていて、人通りがなく、王宮の中とは思えないほど静まり返っていた。
「もう、陛下ったら…昼間だからってこんな人気のないところにお呼び出しくださらなくても…夜までお待ちになれなかったのね」
 イシン・サウラは鼻歌を歌いながらぐんぐん進んで行った。
 使いの女が最後にそっと耳打ちした、
「陛下から、どうぞお一人でお越しくださいますようにとのことでございます」
の一言は、きっと生まれたときから待ちつづけた言葉であったと思う。
 きっと陛下とは結ばれるべき前世の因縁であって、これも当然の結果なのだと思えば、これからおこるはずの陛下との契りに少し不安もあるが期待も大きく、すべてあの方の思うがままに、といままで思っても見なかった言葉が浮かんできたりする。
 指定された小屋のあたりは薄暗く、空気も少し冷たくて、イシン・サウラはなんとなく身震いしたが、それもいま自分の前に横たわっている未来と比べればなんの意味もなかった。
「失礼いたします」
 重い扉を開けて中に入ったが、灯りがないのか部屋の中はうまく見えない。
「陛下…おいでなさいますか?」
 暗いほうがいいのかもしれない、と考えながら、イシン・サウラが一歩踏み込んだとき、背後で大きな音がして扉が閉まった。
「まぁ陛下、そのようにお急ぎなさらなくても……」
 ようやく闇に慣れてきた目に、きらりと何かが光るのが見えた。
 きっと婚約のためのペンダントかなにかだわ、と期待に胸を膨らませてイシン・サウラは微笑んだ。
 皇帝がこの部屋で自分を待ち、そしてこの場で契りを結ぶのだと考えていたイシン・サウラは、どこまでも世間知らずな温室育ちの姫であった。
 きらりと光った次の瞬間、闇が一層濃くなり、まるで眠りに落ちるように意識が飛んでいった。
 それが、最期であった。


       …あわれ

       

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