誕生の朝
イシュタルが東の空に輝くころ、ハットウサの王宮は喜びに包まれた。
名君としてその名を知られた皇帝と、絶大な人気を誇る皇妃との間に待望の皇子が誕生したためである。
息を殺してその時を待ち続けた人々はその報を受けるなり、手を取り合い、中には涙を流す者などもいて、眠らないままの朝を歓喜の中で迎えていた。
「ハディ、もういいのか?」
薄暗い廊下を静かに歩くハディに、声がかけられた。
「イル・バーニさま」
振り返ったハディの目の下にはうっすらとクマが浮き出ていたがその表情は明るかった。
イルは目線でハディの疲労を測りながらゆっくりと近づいた。
「ユーリさまは、もうお休みか?」
「はい、陛下がおそばに。私たちに休むようにと」
陣痛が始まったのが昨日の昼過ぎだから、ずいぶん長い間ユーリの苦しみは続いたことになる。ハディ達三姉妹は、その間そばを離れることはなかった。
ユーリが呻くたび、痛みを己のことのように感じて、手を握り励まし、始めてのことに脅えるのを力づけた。
「ユーリさま、本当にご立派でした」
思い出したのか、ハディの目には涙が浮かんだ。
イルもうなずく。
「立派な皇子だ。これで陛下の皇統も安泰だ。お二人のお子だ、必ずや我が国を繁栄に導くよう成長されるだろう」
いつになく、イルの声には喜色があった。表情も明るい。
「イル・バーニさまはお休みになられないのですか?」
小首をかしげてハディが訊ねる。産室に飛び込みたいのを阻止されていた皇帝のそばに、一晩出仕していたはずである。
イルの腕にはいくつかのパピルスが抱えられている。これから控えの間に戻るようには見えなかった。
「私の仕事は、これからだ。国民に皇子の誕生を知らせなければならない。元老院を招集して、陛下の御子の誕生を承認させる。皇子殿下の立太子についても諮らなくてはならない。皇子殿下の御名を記念して、神殿に寄贈もしなくてはならない。・・しなければいけないことが山積みだ」
言ってイルはふと笑った。
「だが、この時を待ち続けていたのだ。疲れなど感じている暇はないな」
ハディもうなずく。
「ええ、私たちも待ち続けていました」
「では、同志だな」
「もったいないお言葉です」
しばし二人で見つめ合う。先に視線を逸らしたのはハディだった。うつむくと、目を閉じた。
何ごとか思い出したのか、急にくすりと笑った。
「ハディ?」
「失礼しました。・・・あの、皇子殿下のお尻には、アザがあるんです」
「アザ?」
「ええ、大きな青あざ。御子を抱き上げられた陛下が驚かれて・・・でも、ユーリさまの国では元気な赤ちゃんはみんなそのアザがあるんですって」
皇帝の慌てぶりもおもしろかったが、赤ん坊にはアザがあるものだと思いこんでいたユーリの驚いた顔もおもしろかった。
赤ん坊をのぞき込んで喜び騒ぐ姿は、どこにでもいる普通の若い親と同じだった。
「そうか、殿下はご健康であらせられるのだな。・・・さぞや旺盛な食欲を示されるだろう・・・もう、ご飯?などと言って」
「はい、そうですね」
にこにこしながら、ハディが同意する。
イルは、僅かに首をかしげた。言葉を継ぐ。
「もうご飯。東洋人に見られる赤ん坊の尻のアザを蒙古斑、と言う」
「・・・」
ハディは、じっとイルの顔を見返した。イルも黙ってハディを見返す。
先に目をそらしたのはハディだった。丁寧に頭を下げる。
「それでは、イル・バーニさま、私はこれで。お仕事ご苦労様です」
「ああ」
薄暗い廊下を去って行く後ろ姿を見送りながら、イルは考える。
『私のセンスに驚嘆のあまり言葉もなかったか。しかし、ハディ。気に病むことはない。必ずや将来、私との機知に富んだ会話を共有できるときが来るはずだ』
ハットウサに朝の光が満ちようとしていた。
終
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