呼ぶ声 C
『かあしゃん!』
あの子が叫んでいる。
わたしの坊や。
声が出ない。
喉の奥から生暖かいものが溢れ出す。
中庭への隧道の扉を蹴破ってカイルの操る馬は飛び込んだ。
後宮の最奥に騎馬のまま乗りつけられる者はカイルの他にはいない。
「陛下っ!」
回廊から侍従長が転がるように走り出る。
「ユーリはどうした!?」
女の悲鳴が聞こえた。
答えも待たずに数段を駆け上がる。
その扉までわずか数歩。
叩きつけるように両脇へと開けば、室内の人間がいっせいに振り返った。
「陛下ッ!!」
医師や薬師の間から寝台の上に押さえつけられた姿が覗く。
ユーリは身をよじりながら何ごとかを叫んでいる。
「なにがあった!?」
華奢な腕を掴んでハディが振り返る。
頬には幾筋も赤く血が滲み、気丈な瞳には涙が盛り上がっていた。
必死にかぶりを振りながら、ハディは押さえつけた女主人を見下ろした。
聞くより先に見て取ったカイルは息を飲む。
ユーリの夜着の胸元は引き裂かれ、覗く肌の上には痛々しい傷跡が何本も走っていた。
「いやあぁぁぁっ!!」
叫び声と共にユーリの身体が跳ね上がる。
三姉妹がそれを抑えようとする。
「自分でやったのか?」
敷布の上に押しつけられた拳の先の爪は薄く染まっている。
ハディは何度も頷いた。
「お願いです、陛下。どうぞユーリさまを」
涙ながらのハディの訴えを聞きながら、カイルは寝台に駆け寄った。
暴れる身体に腕を伸ばす。
「ユーリ、いったいどうしたのだ、ユーリ?」
熱からの錯乱には見えない。
今朝方別れを告げたときには顔色も良くなっていた。
「離してぇっ!!」
短い髪を振り乱してユーリが叫ぶ。
ふと、腕の中の見慣れた顔の輪郭がぼやけて見える。
これは、誰なのだろう。
見知らぬ女が泣き叫んでいる。
頭を振って違和感を払うと、カイルは訊ねる。
「ユーリ、どうした?私が分かるだろう?」
腕に痛みが走った。
たてられた爪の形に赤く傷が盛り上がった。
一杯に見開かれた黒い瞳から止めどなく涙が溢れる。
「あの子を返して!」
血の気のない唇が震える。
「あの子?」
「坊や・・・あいつが連れて行った・・・」
これはユーリではない。
カイルは悟った。
あの廃屋の一夜から、ずっと纏わりついてきたもの。
何者かが、ユーリの姿をして恐怖と錯乱の中、何かを求めている。
何かとは、子どもだ。
カイルの脳裏に神官の言葉がよみがえる。
『子どもがいたようなのですが、見つかりませんでした』
どうすればユーリを取り戻せるのだろう。
「あいつとは、誰だ?」
胸元を掻きむしろうとする腕を押さえると、視線の先を追う。
開け放したままの扉から、暗い闇が覗いている。
何が潜んでいるのか見て取れない闇。
「ズワ・・・」
女の言葉にカイルの背中を震えが走った。
『カシュガ族を打ち破った陛下を、あの夫婦の無念が呼び寄せたのかも知れませんね』
「・・・ズワは死んだ」
連れて行ったのがズワであるのなら、子どもの運命は知れている。
それを知らずに母親は迷い、ユーリに取り憑いた。
いや、この恐慌ぶりはすでにその運命を察知していたのだろうか。
刺激をしないようにカイルは言葉を選ぶ。
「ズワは、ユーリが討ち取った」
不自然な姿勢に身体をよじったまま城壁の下に投げだされいた姿を思い描く。
彼がもう手出しは出来ないと分かったとき、民衆の叩きつけた怨嗟はすさまじかった。
「・・・討ち取った?」
張りつめた糸が切れるように、抵抗が止んだ。
期待と不安がない交ぜになって瞳が揺れる。
「じゃあ、坊やは?」
縋る瞳が訊ねる。
「お前が、討ち取った。分かるか、ユーリ?」
呼びかければ、ユーリが応えるかも知れない。
取り戻さなくては。
カイルは抱く腕に力を込めた。
「思い出すんだ」
「・・・私が?」
ユーリは苦痛に顔をゆがめた。
「・・・私のはずが・・だって、あの子は・・・」
「陛下っ・・・!」
薬師が短い悲鳴を上げた。
恐慌状態が去ったことに気がついて退出しようとしていたものらしい。
だが、彼は敷居のあたりに座り込んでいた。
「なにごとですの?」
ハディが不信をあからさまに、老いた薬師を抱え起こした。
歯の根を震わせて薬師は回廊の闇を指した。
「あ、あそこに」
ユーリが息を飲むのが分かった。
「坊や?」
黙り込んだ一行の押し殺した呼吸の音だけが耳に響く。
どれくらいそうしていただろう。
かすかな、ほんのかすかな音がした。
湿った小さな音。
ぺたり。
また、ぺたり。
濡れた足音のようだった。
ユーリがよろめきながらカイルの腕から抜け出した。
「・・・坊や?」
「だめだ、ユーリ」
引き留めようとしたカイルの腕の下をかいくぐり、前に転がり出る。
「坊やっ!」
叫びながらわだかまる闇の中に腕を伸ばす。
「いらっしゃい、坊や」
なにかが弾むように揺れた。
幼児の笑い声が聞こえたような気がした。
走りだそうとするユーリの衣の端を双子が捉える。
「いけません、ユーリさま!」
連れて行かれてしまう。
とっさにそう判断したのだろう。
よろめいたユーリの腕の間の空間に、ゆがんだ影が現れ、消えた。
伸ばされた腕が空を掻く。
両の手のひらに、べっとりと汚れが付着していた。
「きゃああああっっ!」
悲鳴がほとばしる。
痙攣するユーリの身体をカイルが受け止める。
「ユーリっ!」
両手を染める鮮血に、黒い瞳が見開かれる。
「坊や、坊やが・・・」
「しっかりしろ、ユーリ」
不意にユーリの喉が苦しげな音を立てた。
震える指が胸元を掻きむしる。
カイルの腕に暖かいものが滴った。
「ユーリ?」
白い胸の中央に、生々しい傷が口を開けていた。
あふれ出す血を抑えようと、力無く指が動く。
「ばか・・なっ!?」
あの日、女の命を奪った傷だ。
その場所に鋭い刃を突き立てられて、女は絶命していたという。
「違う、これはお前の傷じゃない!」
絶望のあまり女は、ユーリをも道連れにしようと言うのか。
傷を塞ごうと、カイルが手のひらを押し当てる。
走り寄った三姉妹が短く叫んだ。
這いつくばる薬師の身体を飛び越えて医師が駆け寄る。
「どうして、このような?」
押し当てた布がみるみるうちに染まってゆく。
ユーリの唇が震える。
か細い声が何かを訴えている。
カイルは必死に耳を近づけた。
「・・・アスラン・・・」
「なんだって?」
「・・・腕に・・返してあげて・・・」
弾かれるように顔を上げ、三姉妹に命じる。
「アスランをここへ!」
ハディが背を向けたとたんに、回廊の閉ざされた扉がはじけ飛んだ。
激しい息づかいに体を震わせながら、黒い巨体が姿を現した。
「!!」
木屑を踏み散らしながら、アスランがいなないた。
「ユーリ、アスランだ!」
力を失いつつある身体を抱き寄せてカイルは叫んだ。
弱々しくまぶたを開くと、ユーリはつぶやいた。
「・・・神殿へ」
その意味することを瞬時に悟ったカイルは、ユーリの身体を抱きかかえた。
「アスラン、急ぐんだ!」
たてがみを掴み、馬具のない裸の背に身を躍らせる。
蹄で地を掻くと、アスランはすぐさま外へ飛び出した。
『あの子を返して』
『私の坊や』
『目を覚ましてしまったから』
『あいつが連れて行った』
『どうか、もう一度抱きしめさせて』
腕の中の身体が急激に冷えてゆく。
こんな事が起こるはずがない。
ユーリは傷を負ってさえいないのに。
カイルは祈りながら風を切るアスランの背に伏せていた。
神殿まではわずかの距離のはずだった。
終わることのない闇の中を駆けている気がする。
「陛下!」
神官が叫んでいる。
カイルはその脇をすり抜けると、至聖所へと馬首を向けた。
石造りの床の上をアスランの蹄が鋭い音を立てて駆け抜ける。
何ごとかと廊下へ出た神官達が悲鳴を上げる。
「あそこだ、アスラン!」
最深部の扉を捉える。
「扉を開け!」
警備兵が慌てて一枚岩の扉に飛びついた。
灯りの絶やされることのない室内に、走り込んだ。
片腕にユーリを抱えたまま飛び降りる。
正面には強大な女神像が照らし出されていた。
その足下には、おびただしい奉納品が並べられている。
「どれだ?」
いくつもの中を見まわす。
ユーリが願ってここに置いたもの。
彼らには癒しが必要なのだと、あの時ユーリは言ったのだ。
「どれなんだ、ユーリ?」
ことり、と音がした。
アスランがいななき蹄を掻いた。
その箱に近づき、鼻面を押しつける。
小さいが美しい箱だった。
その箱を選んだのは、かつてのユーリだった。
カイルは無言で箱に歩み寄ると、蓋を取り中味を取りだした。
おぞましい、革衣。
微妙に色の違う革を縫い合わせたそれを、カイルはユーリの腕にかけた。
「・・・お前の息子は・・・いるのか?」
触れたくても触れられない失われた子供。
あの日、それを手にしたユーリは言ったのだ。
苦しんだのだから、癒されることが必要なのだと。
誰かが無条件で抱きしめてあげなくてはならない、と。
美しい女神はまるで誰かを受け止めるように両腕を拡げている。
だから、ここに置いた。
「ああ・・・」
ユーリの唇が震えた。
「わたしの・・・坊や」
血まみれの指先が、縫い合わされた衣の上をたどってゆく。
苦悶を寄せ集めた衣が、手の中で蠢く。
震える指が一所で留まる。
「・・・こんなところに・・・」
昏い光が浮かび上がり、ほの白い手が指先を掴んだ。
『かあしゃん』
舌足らずの小さな声が言った。
『坊や』
ユーリの顔が一瞬微笑み、白く弾けた。
「ユーリ?」
腕にかかる重みに、おそるおそる声をかける。
涙の痕の残る頬に、指で触れる。
指先にほのかなぬくもりを感じた。
「・・・かわいそうだね・・・」
ほっと息をつくカイルに一度だけユーリは笑うと、意識を失った。
「燃やしちゃうの?」
兵士の持つたいまつを眺めて、ユーリはカイルを見上げた。
「火は浄化の力を持つからな」
森のそばの小屋はあの日と同じに朽ちかけて蹲っている。
兵士が言葉を交わしながら、周囲に干し草を積み上げている。
ユーリの身体をマントにくるみながら、カイルは頷いた。
かけられた炎が、崩れた壁を這い上がっていく。
「ずっと、探していたんだね」
共有していた切り裂かれるほどの想いは、ユーリの中でまだ疼いている。
失った痛みは、ユーリにだからこそ理解できたのかもしれない。
肩にまわされたカイルの腕に力がこもる。
一陣の風が巻き起こった。
あおられた炎はたちまちに廃屋を飲み込んだ。
火の粉を吹き上げながら、屋根が崩れ落ちていく。
「カイル?」
無言で炎を見つめるカイルに、ユーリもまた炎へと視線を戻す。
頭上には青い空が広がっている。
立ちのぼった何条かの煙が、絡み合いながら高みへと吸い込まれていった。
おわり
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