お引っ越し


「これで、忘れ物はないわね?」
 母上が腰に手をあてて、部屋の中を見まわした。
 驚くほどたくさんの箱が目の前には積み上げられている。
「すごい荷物だね」
 ボクは感心してつぶやく。
 兄さまの二間続きの部屋にどれだけのものが詰め込まれていたんだろう?
「当座の生活に必要なものもあるからね」
 麦の詰められた壺を数えながら母上はうなずいた。
「まあ、足りないモノがあれば取りに来ればいいし」
 一抱えもある木箱に粘土板を押し込んでいた兄さまが顔を上げた。
「そうそう気軽に後宮に顔を出すわけにもいかないでしょう?」
 自分の宮を構えた皇子は一人前。
 これからはいちいち使者を立てなきゃ、とんでもなく不作法ってことになってしまう。
「なに言ってんの、あなたはここで育ったんじゃない?」
 現皇帝のすべての皇子皇女をたった一人で産んでのけた母上は言う。
「他人行儀なことは言わないで」
 皇太子として至極真っ当な教育を受けて、周囲の期待どおりに英明に育った兄さまはしかめっ面を作った。
「皇太子がけじめをつけなくてどうするんです」
 母上は反論しようとしたらしい。
 なにか、けたたましくも騒々しい音が廊下から響いてこなければ、開いた唇からは言葉が飛び出していたはずだった。
 けれど、あれはなんなんだろう?
 そうだ、のんびりエサをついばんでいる水鳥の群れの中にいきなり馬を走らせたような・・・
「デイル兄さまっ!いたっ!!」
 真っ赤な顔をして戸口から転がり込んできたのは妹のマリエだった。
 いや・・・マリエと、騒がしいかたまりだった。
「良かったあ、間に合って!!」
 巨大な籠を引きずりながらマリエはきらきらと瞳を輝かせた。
 騒音の出所は籠から半分頭を突きだしていっせいに鳴いているアヒルだった。
「マリエ・・・それって?」
 兄上は半分ぐらい予想はしていて、さらにそれが当たらないといいな、なんて思ってそうな表情で訊ねた。
「これ、おせんべつ!!」
 うん、ボクもそう思った。
「兄さまの宮の池に放すのよ」
 マリエのセリフは、断定だった。
 『放したらどう?』という提案でも『放したくない?』という質問でもなかった。
「あら、いいわね」
 母上はにこにこして言う。
「優雅じゃない?」
 う〜ん、ボクが見たところアヒルは10羽以上いて、これがいっせいに今みたいに騒ぎたてたら優雅なんてものはふっとぶと思うけど。
「・・・ありがとう」
 この国で母上とマリエに逆らえる者などいないのだという経験から、兄さまは不本意だろうが礼を言う。
「あそこの池は綺麗な蓮の花が咲くのよね。夏にはよく涼んだものだわ」
 母上は思い出したのか、うっとりと遠い目をした。
 そういえば、母上がまだ皇子だった父上のお側に上がられたのは今の兄さまぐらいの時だったと聞いた。
 新婚時代を過ごされた宮を思うと、うっとりされるのも仕方ないことなのかも知れない。
 でも、こんな騒音の中でよく浸れるよね。
「普段はおとなしいアヒルなんだけど」
 さすがに気が咎めるのか、マリエは羽毛の飛び散る籠を揺すった。
 アヒルはよけいに騒ぐ。
「どうして鳴くのかな?」
「お腹が空いているんじゃないの?」
 窮屈だからだと思う。
 兄さまは思っていることをおくびにも出さずに、双子にアヒルを連れて行くように命じた。
「アヒルってかわいいよね?」
 騒音が遠ざかるとマリエは小首をかしげて兄さまを見上げる。
 その頭に兄さまは手のひらを乗せた。
 じつは父上に負けず劣らず、兄さまはマリエにメロメロなんだ。
「ああ、大切にするよ」
 マリエはボクだってけっこうメロっとするかわいい笑顔で母上を見上げる。
「それに食料にもなるし!」
「そうね、無駄がないわね」
 誰もが魅了される女神の笑顔を浮かべて、皇家の頂点にいる母娘はうなずき合った。
 ・・・・ちょっとなあ。
 兄さまは、肩をすくめるとボクを見た。
「ピアはさっきからなにを持ってるんだ?」
「ああ、これ?」
 ボクは慌てて抱えていたものを兄さまの方へと突きだした。
「枕!」
 そう、注文が間に合わないかと焦ったんだよね。今使ってるのと同じの。
「枕がかわると眠れないから!」
「これはピアからの餞別?」
 とんでもない!
 ボクは力一杯頭を振った。
「違うよ、ボクの枕!ないと困るでしょう?泊まりに行ったときに!」
 兄さまはこめかみを押さえた。
 呆れてたりする?
「だって、いちいち枕を持っていくのってなんかヘンじゃない?」
 これはいろいろ考えた末の結論なんだけどな。
 持ち歩くのがヘンなら常備すればいい。
「ヘンだけどね・・・」
「遊びに行っていいでしょ?」
 ボクは必死にくいさがる。
 後宮ではしょっちゅう兄さまの寝台に潜り込んだ。
 なんていうか、子どもの頃からの習慣みたいなものなんだ。
 まさかイヤって言わないよね?
 兄さまは深いため息をつくと、いつもの困った笑顔を浮かべた。
「いいよ、いつでもおいで」
「わたしも泊まっていい?」
 マリエが腕にしがみついて言う。
 もちろん、兄さまは断れないさ。
「じゃあ、あたしも行っちゃお!」
 母上がうきうきしながら言う。
「やめてください」
 兄さまは母上に指を一本突きつけた。
「ほいほい外泊する皇妃なんて聞いたことがありません」
「なによ、固いわね!」
 母上は唇を尖らせた。
 まあね、この国の皇帝陛下は皇妃がそばにいないと眠れない方だから。
 あ、父上にとっての母上は、ボクにとっての枕なのか。
「もう荷物を運ぶんですから、母上は御政務にお戻り下さい!」
 母上はぶつぶついいながら、戸口まで近づいた。
 まったく誰に似たのかしら?
 そんなつぶやきが聞こえる。
 兄さまの合図で、待ちかまえていた人足が荷物を持ち上げる。
「ちゃんと、あっちについたら連絡するのよ」
 ほんの少し寂しそうに母上が言う。
 なんだかんだで荷造りを覗きに来たっていうのは、やっぱり息子を手放す感傷なんだね。
 分かるなあ。
 近所だって分かっても、すごく遠くに行っちゃう気がする。
 ほいほい泊まりに行けるボクがそうなんだから、ほいほい泊まりに行けない母上はもっと寂しいんだろう。
「分かりました・・・あ、忘れてた!」
 兄さまは言うと、母上のそばにずんずん近づいた。
 そして、母上の後ろにいた若い女官の手首を掴んだ。
「女官をひとり譲っていただけますね?宮に連れて行きますから」
 手首を掴まれた女官は大きな瞳をさらに大きく見開いている。
 えっと、確か母上がどこか田舎で見つけてきた女官だ。
「あ、あのぅ・・」
 若い女官は顔を真っ赤にしている。
 母上はにんまりとしか形容できない顔をした。
「いいわよ」
 それから背中をむけて楽しそうに繰り返した。
「まったく誰に似たのかしら?」


「え?え?そうなの?いつから??」
 マリエがボクの袖を引っぱる。
「う〜ん、分かんないな」
 ボクは真っ赤な顔をして俯いている女官と、もじもじしている兄さまから目をそらす。

 兄さまは宮を構えて一人前になる。
 仕方がないなあ。
 当分、お泊まりはやめておこうっと。

                     おわり  

     

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送