喜びも悲しみも幾歳月



 キラリ、となにかが光った。
「あ」
 戸口に手をかけて室内を眺めていたユーリが、膝をついた。
 色とりどりの鮮やかな敷物で覆われていた床は、今は敷かれた石板がむき出しになっている。
 石の上で、なにかが光っている。
 ユーリの指先がそれ触れようとして、空を横切った。
「なんだ?」
「・・・結晶が光っただけみたい」
 床に片手をついたまま戸口に立つ姿を振り返る。
「石になにか混じっているんだね、ところどころ光ってるよ」
 掃き清められた床には、戸口からの光が差し込んでいる。
 カイルは目をすがめるとがらんとした室内を見まわし、独り言のようにつぶやいた。
「なにもないな」
 その声にあきらめを感じて、ユーリは笑った。
「全部持っていったからね」
 ぺたんと座り込んだユーリのかたわらにカイルも腰を下ろした。
「新しいものを誂えたはずだぞ」
「使い慣れたものの方がいいって・・・あちらでも全部用意していたはずだよ」
 延々と続いた行列を思い出し、ユーリは笑う。
 周囲が脅えるほどの不機嫌な顔で、カイルが用意を命じた婚礼の品々だった。
「あの子たち、家具に埋もれて暮らすことになるね」
 あの子、という呼び方ももうふさわしくないのかも知れない。
 もう彼女は彼らだけの娘ではないのだから。
 ヒッタイト帝国の皇帝夫妻のただ一人の娘、マリエ・イナンナ皇女は本日嫁いだ。
 本来なら式は嫁ぎ先のカルケミシュで挙げるはずだった。
 それをハットウサの神殿で挙行することにしたのは、皇女を迎えに来ていた花婿の強く希望したことだからだ。
「あたし、カイルがいつ怒り出すかってはらはらしたよ」
 式のあいだ仏頂面でいたのを思い出したのか、ユーリはカイルの頬をつつく。
「やっぱりマリエは嫁にやらない、って」
「あれが望んだのだから仕方ないだろう」
 怒ったように言うとカイルはユーリの肩を抱き寄せた。
「いくら私でも、娘の幸せを邪魔するようなことはしない」
 花嫁衣装に身を包んだマリエは、皇帝夫妻の前で膝をつくと深く頭を下げた。
「『幸せになります』、か」
 いつかはこういう日がやって来るとは思っていた。
 それでも、やはり思い切ることが出来ないでいた。
 本当に、この相手で良いのか。
 娘は必ず幸せになれるのだろうか。
「ユーリ」
「なあに?」
 変わらないままの笑顔がそこにある。
 ささくれた心を、穏やかに溶かす笑顔。
「おまえは、幸せか?」
 思えば、ユーリの父親はそういった悩みすら持てないままに娘を手放したのだ。
「突然なんなの?」
 大きく見開かれた瞳が愛しいと感じれば感じるほど、これを奪い取られた父親の痛みが分かる。
「言ってくれ」
 優雅に裾をつまみ上げて膝を折ったマリエよりも、あの時のユーリは若かった。
 ユーリの手のひらがカイルの頬を包んだ。
 柔らかく唇がほころぶ。
「幸せよ」
 脅えて震えていた少女は、いつの間にか穏やかな微笑みを浮かべるようになっている。
 誰よりも大切にしてきた自信はある。
 だからこそ、いまユーリはこんな風に笑うことが出来るのだとも思う。
 マリエがふと隣の青年を見上げたときに、これと同じ表情が浮かぶのをカイルは見たのだった。
 手放す時が来た、そう悟るしかなかった。
「知らないあいだに、大人になっていたな」
「・・・みんな大人になるのよ」
 腕にユーリを抱き込んだまま、カイルはもう一度室内を見まわした。
 窓際に揺れていたカーテンは、マリエが気に入った小花を刺繍させたものだった。
 寝台のそばの机の上には、銀細工の箱。
 あれは沿岸に視察に出たおりに、土産にと買い求めた。
 青い硝子壺は献上の品の中でどうしても欲しいとねだったものだ。
 そこにいつも朝一番の散歩で摘んだ花を挿していた。
 朝露を含んだままの花束を抱えて、息を切らせてやって来たのを思い出す。
 お父さまとお母さまのお部屋の分もあるのよ。
 これからマリエは自分が選んだ男のために毎朝花を摘むのだろう。
「本当に、なにもないな」
「寂しい?」
 ユーリの声に頭を振る。
「子ども達はやがて巣立ってゆくものだろう?」
 寂しくないと言えば、嘘になるけれど。
 自分の育てた娘を信じるしかない。
「また、二人きりになったな」
 ユーリが悪戯っぽく笑う。
「もう一人、娘を産んであげようか?」
 瞬間、幼い姿が目の前を走り抜けた。
 はしゃぎ声や、泣き声が耳の奥によみがえる。
 背伸びをして指先を握りしめた幼い手。
 カイルは息を詰め、そしてまた頭を振った。
「いや、娘はもうこりごりだ。育てたところで、他の男にさらわれるだけだ」
 言うと勢いよく立ち上がり、ユーリの腕を引いた。
「おまえと二人きりでいいよ」
「きゃっ」
 つられて立ち上がったユーリがよろめいた。
 慌てて抱きとめる。
「大丈夫か?」
「急に立ったから・・・」
 言ったまま、カイルの胸に顔を埋める。
 娘を送り出したのは、ユーリも同じだとようやく思い当たる。
 ここ数日の不機嫌で、思いやる余裕がなかった。
「マリエの選んだ相手だ」
 撫でる手のひらの下、黒い髪が柔らかい。
 この柔らかさだけは、何があっても手放さないと思う。
 たった一人の娘を送り出したからこそ、腕の中の愛する女を与えてくれた運命に感謝する。
「そうだね」
 マリエのいた部屋は、空虚なほどに明るい。
 ここを娘の部屋に選んだのはユーリだった。
 二人で選んだ家具を運び込み、やがてマリエが選んだものが増えた。
 あの時、扉を開けたユーリはなんと言ったのだろう。
 ここがいいわ。
 庭の花壇がよく見えるもの。
 優しくて愛される娘になるように。
 そして、娘は巣立っていった。
「おまえには私がいるだろう?私にもおまえがいる」
 いつか、このがらんとした部屋もまた笑い声で満たされる日が再び訪れるだろう。
 新しい家族が、またこの王宮で時を刻んでいくのかも知れない。
 最初は二人、そして子ども達が走り回り、やがてまた二人になる。
 カイルはユーリの手を取った。
 強く握りしめる。
「これからは二人だけの時間を過ごそう」

 繋いだ手のひらは、暖かい。


                   おわり

       

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送