オロンテスのほとりで・・・まろ日記



 戦いは今やたけなわである。
 ヒッタイト帝国の皇兄、ロイス・テリピヌ殿下は揺れる戦車の上でこっそり口元を押さえられた。
「埃っぽいのう」
「はっ、申し訳ありません!」
 御者が振り向きざまに謝る。
 みやびな殿下は優美に口元をゆるめられた。
「よい、ここは戦場だ。そちのせいではない」
 日ごろは穏やかでいても、武勇でならす国の重鎮として殿下は戦場では雄々しく戦われるのだった。
 とりあえず、特産物の鉄剣を抜きはなち、団子になっている敵味方の歩兵を眺め渡す。
 どこもかしこも入り交じり状態である。
「・・・困ったのう」
 困っている間に戦車はどかどかと駆け抜けてゆく。
「これ、もう少し速度を落とさぬか。これでは戦えぬ」
 襲いかかる敵兵もたちまちのうちに背後に飛ばされてゆくのだ。
「はっ、申し訳ありません!」
 御者は素直にスピードを落とした。
 馬が不満そうに足踏みをする。
「うむ、それでよい」
 殿下は満足そうにうなずくと、周囲を眺めた。
 小高い丘の上にいる。
 どうやら、一気に戦場を駆け抜けてしまったようだった。
「・・・戻るか」
 御者に命じようとした時、頭の上にダチョウの羽を突き立てた男が走ってくるのが見えた。伝令である。
「で、殿下!」
 息を切らせながら伝令は片膝を付いた。
「どうした?」
「イシュタル様が至急殿下においで下さるようにと」
 これはまたどうしたことだ、と殿下は考えた。
 皇帝陛下からの伝来ならいざしらず、近衛長官からの伝令がやってくるなど。
 まさか皇帝陛下になにかあったのだろうか、とまでは考えない殿下だった。

「皇帝陛下の行方がわからない!?」
 低頭するイシュタルからそう聞かされて殿下はたいそう驚いた。
 今は戦い真っ盛りなのに、命令を下す皇帝がいなくなってしまったとは。
 どうすればいいのだろう。
 殿下は頭を下げてなにか喋っているイシュタルを眺めながら必死に考えた。
 いや、あの聡明な弟のことだ。
 怪我をしたとかそういうことではないだろう。
 きっとちょっと用足しに戦線を離脱しただけなのだ。
 聡明な弟が敵国の将軍と露出マッチをしているなどとは思いもよらぬ殿下は頭をひねった。
 しかし、このままでは指揮を執る者がいない。
 勝負は水物。気を抜けばいつ何時足下をすくわれるか分からない。
 誰かが皇帝陛下の戻ってくるまで指揮を執らなくては。
 そこまで考えたところで、気がつけばイシュタルが総指揮を要請している。
「わたしでは帝国軍はまとまらぬでしょう」
 一応辞退してみる控えめな殿下である。
 皇兄として、総指揮を勤めるのは当然であるが、そこはそれ、待ってましたとばかりに登場すれば皇位に色目を使っていると誤解されるおそれもある。
 瓜田に履を入れず。李下に冠を正さず。
 気乗りはしないが何度も請われて、ようやく腰を上げるようでないと・・・
「皇帝ムルシリ二世唯一の妃として号令してみろというのだ」
 ミタンニの王がそんなことを言っていた。
「無理です、わたしにはとても」
 皇帝陛下の唯一の妃は躊躇した。
 そうだろう、やはりここは私が。
 殿下は自慢の髭を撫でられた。
 しかし、そこにまた戦車が駆け込んでくる。
「エジプト王軍が移動し始めました!オロンテス渡河を考えている様子!!」
 急を告げる声に一堂は色めき立つ。
 とりあえずの策を殿下は必死に考えられる。
「テリピヌ殿下に動いていただき、河との間に新しい防衛戦を作ればとりあえず・・・」
 おお、ぐっどあいであじゃ!他に策も思いつかない。
 イシュタルさまはさすが聡明な皇帝陛下がお側に置かれる方だ。
 感心しながら殿下は頷かれる。
「ご命令あれば従いますよ、イシュタルさま」
 しかし動いてしまえば総指揮は執れない。ということは総指揮官にはイシュタルさまがなられるのか。
 それもまたよし。
 殿下はあっさり納得された。
 とりあえずは移動だ。


「というわけで、『紅の獅子』旗が揚がればホレムヘブ王を囲い込みにする、とのことです」
 伝令に大きく頷く。
 なかなか良い作戦だ。
 殿下は軍旗の下がった戦場を見まわした。
「旗が揚がるのが待ち遠しいのう」
「左様でございますね」
 御者も相づちを打つ。
「エジプト王もさぞや驚くだろうな」
「楽しみですね」
「おお、よい歌を思いついたぞ」
 殿下は目を輝かされた。

−−−−−兵きそふ オロンテスの 水際に
            来(き)いつつ泣くは エジプト王かも−−−−−
(たくさんの兵が争っているオロンテス河のほとりにやってきて泣いているのはエジプト王なのでしょうか)

「おお、なんと縁起の良い歌でしょう!」
 御者は感極まって目元をぬぐった。
「まさに今後の殿下の武勲を予見しているような歌でございます!」
「そう誉めるものでもないよ。ほんの手すさびに詠んだものだから」
 殿下は謙遜され、戦場に視線を向けられた。
 と、土ぼこりに霞む遠方で次々に深紅の旗が翻るのが見えた。
「おお、イシュタルさまの合図だ!」
 殿下も片手を挙げて指揮下の軍に号令をかけた。
「そうだ!」

−−−−−オロンテスに 囲い込みせんと 合図待てば
              旗もかなひぬ 今ははせいでな−−−−−
(オロンテスで囲い込みをしようと合図を待っていたらば、合図の旗も立ったようだ今は馳せ参じようではないか) 

「なんと素晴らしい!殿下は戦場でもみやびさを忘れられない!」
 殿下が朗々と詠じられるとハレブ軍兵士は感涙にむせびながら鬨の声をあげるのだった。

                           おわり

       

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送