雪の積もる夜

                          by千代子さん

 ――皇子が好き。…なにも考えられないの。もう、どうなってもいい…


 ユーリは、また降り始めた雪を見るともなく見つめながら、ぼんやりと長椅子の上に腰を降ろしていた。
 今夜はハディの勧めで新しく作られた夜着に袖を通してみたけれど、どうにも裾周りが軽すぎて足に纏わりつくような気がする。
 それに普段のものよりも胸元が開きすぎなんじゃないかしら、と引っ張りあげてみるけれど、そのたびにちらりと覗く、自分の控えめながら盛り上がった乳房の白さに眼を射られ、どうにも落ち着かなかった。
「皇子…」
 思わず溜息が漏れる。
カイルはまだ仕事が残っているからと言って、夕食後も一室に閉じこもりなかなか寝所に顔を出さなかった。
 いつもなら夕食の後、ユーリが湯殿から戻るのをワインを片手に部屋で待っているはずだった。
 ハディが渋るユーリを説き伏せて、そっとうなじに潜ませる香油の匂いを確かめるためにユーリを膝に乗せ、気分のよいときなど歌のひとつも歌ってくれるカイルであった。
 それなのに今夜は一向に姿を見せず、ユーリは泣きたくなる思いを堪え、雪のせいで音もない世界をひとり過ごしているのだった。
 ――…皇子がなかなか部屋に来ない原因は判ってる。きっと…昼間のこと…
 ユーリは唇をかみ締めて両手で自分の身体を抱いた。
 昼間、湯殿でカイルに抱きしめられた感触はまだありありと残っている。
 力強く抱きしめられ、気も遠くなるようなキスと熱い肌に包まれて、ユーリはこの瞬間が永遠に続けばいいと思ったことを憶えている。
 あのとき自分で自分の身体の押さえが利かなかったのは、湯気の熱さに酔っていたばかりではなく、カイルの愛撫に流されただけでもなく、自分でもはっきりとカイルを求めていたからだと思う。
 ひとを恋しいと思うとはああいうことか、愛する男性とひとつになりたいと思うのはああいうことだったのか、と考えていけば、ユーリの気持ちを待つとまで言ってくれたはずのカイルが、どうして自分を置いてひとり出て行ってしまったのかの理由も考えられず、ユーリは眠ることも出来ずにただカイルの帰りを待つばかりであった。
「寒いな…」
 雪がかなり積もってきたようだ。夜もふけてきた。
 ユーリは身震いを一つしてから、手近にあったショールを羽織った。
 どういうわけかハディがいつもより念入りに磨き上げてくれた肌はすっかり冷え切ってしまい、湯上りの柔らかかった肩もこわばっているように思える。
「どうして…? …皇子…」
 ユーリはカイルが来るまで眠るまいと決めていたにも関わらず、つい寝椅子の背に寄りかかったばかりに、ゆっくりと意識が遠ざかっていってしまった。

 ユーリは、自分自身がいま、夢を見ていると思った。
 一面の花畑の中、ひとり座って膝元の花を摘んでいる。
 片手に抱えきれないほどの花を、さてどうしようかしらと立ち上がったとき、ユーリは自分の足元に不気味な色をした蛇が絡み付こうとしている。
 声を出したかったが怯えて叫ぶこともできず、いままさに這い登ってこようとする蛇を払うにも払い落とせず、きつく目を瞑り身体を固くして動けなかった。
 いや、誰か助けて、と祈りつつも辺り一面見渡す限りの花畑、人ひとりの姿も見えなければユーリひとりではどうしようもない。
 胸のあたりまで這い上がってきた蛇に、ユーリは失神するほどの恐怖を覚えて思い切って手を振り上げようとしたそのとき、なにやらふわりといつも馴染んだ香りに包まれ、その瞬間に蛇も消えていった。
 ああ、そうか、これは皇子の香りだ、とどこかで思ったが、ユーリは解き放たれた安心感に包まれていつまでも漂っていたい気分だった。

 だんだん意識が上昇してくる。
 どうしてこんなに身体が揺れているのかしら?
 ユーリは不安定な足場で立ち往生しているかのような感覚を憶え、はっと目を開けた。
 不安定、と思ったのもそのはず、ユーリはカイルに抱き上げられてベッドにそっと下ろされるところだった。
「皇子…!」
「…起こしたか?」
「…………」
「寒かったろう? あんなところで寝ていると風邪引くぞ」
 寝かせたユーリの胸まで毛布を引き上げながら、自分はベッドの端に腰を下ろしたままで、カイルはそっとユーリの前髪に指を絡ませた。
 いつまでもそうしたままのカイルをいぶかしんで、ユーリはその手をそっと取った。
「…寝ないの? 皇子」
 いつもなら一緒にベッドに入って、互いの体温で温まってくるのを確かめ合いながら眠りに落ちるはずだった。
 カイルは一瞬目を見張ったが、傍らの小机に置いてあったワインを取り上げ一気にあおると、ユーリの額に唇を寄せてから横になった。
「おやすみ」
「…おやすみなさい」
 いつものようにユーリの身体に腕を回して目をつむるカイルに、ユーリは今夜ばかりはがっかりした。
 昼間、湯殿でカイルは間違いなく自分を抱いてくれたはずだった。
 どういう理由でかは判らないが、置いてきぼりを食わされたのはユーリにしてみれば疑問だらけで、体の奥で燻る火の粉を無視しようにもそれはだんだん大きな火種になっていくのを感じている。
 男性の肌を知らないとはいえ、ユーリとて娘の時期を無駄に過ごしているはずもなく、想像の世界で膨らませた男性像はすなわちカイルであって、カイルにならば全てを任せられるというところまで結論は出ている。
 自分さえ、心の奥深くに閉じられたままの扉を開ければ、カイルはすぐにでも入ってきてくれるもの、と思っていたユーリには、ようやくその扉を開いたというのにカイルの行動は解せないものであった。
 いつものようにカイルの胸に顔をうずめたユーリは、そっと上目遣いにカイルを眺めた。
 神がどれほどの期待を込めてこの細工を施したのだろうかと思えるほど端整な顔立ちは、眠っている間、どうにかすると少年のようにあどけなく見えることがある。
 けれども今日はなんとはなしに怒っているような、眉尻が険しく思え、ユーリは思わず手を伸ばして頬を撫でた。
「皇子…寝ちゃったの?」
 そっと呟いた言葉であったが、やはりカイルは寝についていなかったらしく、うっすらと目を開けた。
「眠れないか?」
「……雪が、降ってて…寒いから」
 ここでカイルが抱き寄せてくれるもの、とかすかな期待を込めて言ってはみたが、案に反してカイルはユーリの肩まで掛け布団を引き上げてくれただけだった。
「まだ寒いなら少し飲んで寝るか? ワインでも用意させようか」
「ううん、いいの…」
 ユーリは盛り上がってくる涙を見せないために背を向けた。
 どうして皇子は判ってくれないのかしら、やっと皇子になら…って気になったのに、と想いが走馬灯のように身体中を駆け巡り、叫びだしたくなるのをじっと堪えるのはなかなかに辛かったが、カイルが黙ったままでいたのはかえって都合がよかったかもしれない。
 やっぱり皇子にとってあたしは…と考えるものの、その先はあまりの悲しさで思い浮かべるのさえ恐ろしい。
 そっと振り返ると、カイルもこちらに背を向けて寝に入った様子だった。
 ユーリはそっとカイルの背に触れ、身体をくっつけて、肌から伝わってくる体温と鼓動に包まれて、ゆっくり瞳を閉じた。
 どうして抱いてくれないの、と喉元まで上がった言葉を飲み下しながら。
 規則的に力強いカイルの鼓動は、まるで子守唄のようにユーリの身体に染みとおっていくようであった。
 日本へ還ることなど、いまは考えられなかった。
 もしもカイルに引き止められたならば、きっと自分はここに残る道を選んでしまうに違いないとも思える。
 胸の奥に灯った小さな炎は無視できないけれど、いまはこうして寄り添っているだけで幸せなのも事実だった。
 ユーリは小さくひとつあくびをして、カイルの背に頬を摺り寄せた。
 乳香の香りとカイルのぬくもりに包まれてそっと眠りに落ちていく瞬間、カイルと結ばれるのもそう遠くないことかもしれないと思いつつ、ユーリはカイルと二人きり、雪の降り積もる音のない世界にいるような気がして、暖かな肌を抱きしめた。
 外では、まだ止みそうにもない雪が、はらはらと舞い落ちている。


               カイル、生き地獄…

     

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