淡雪
by 千代子さん
空から落ちてくる雪の白い小さな珠は、カイルの掌の上にたどり着いた刹那、名残を惜しむ間もなく解けて消えた。
湯上りの肌からは湯気が上がっているが、それも雪の中にいてはすぐに冷えてしまうのは当然のことで、身につけているのもガウンだけでは甚だ心もとなく、カイルは溜息ひとつついて室内へ入っていった。
居間にはワインの用意がされてあり、あまり飲む気にもなれなかったが高ぶる気持ちを抑えるにはなにか行動を起こすよりほかなく、重い気持ちのまま手酌しつつ、脳裏に浮かぶのは眩しいまでに輝くユーリの白い肌のぬくもりだった。
いましがた、湯殿でふたりを隔てていたものはなにもなく、互いに愛だけをぶつけあっていられたらどれほどよかったか、いや、それではユーリの身体に傷をつけるだけ、あいつの為にはならぬ、とどうどう巡りを繰り返しているのは、欲望処理のための女としてユーリを扱いたくない気持ちの現れだった。
惚れた女が身体を開き、自分を迎え入れようとしていたにも関わらず、カイルはそれが出来なかった。
耳の奥でユーリが涙ながらに呟いた言葉がこだましている。
「皇子が好き…どうなってもいいの」
ユーリのこの言葉は、カイルにとって致命的だったのではないだろうか。
燃え盛る身体の押さえが利かなくなりながら、カイルはこのままふたりで流された先にあるものは、きっとあいまいな未来でしかないと思った。
あとから冷静になって思えば初めてのユーリの告白だったのだけれど、あのまま状況にながされて結ばれても、けしていい方向には転がらなかったのだと思う。
「――春は、水の季節だね」
今朝方のユーリの一言が思い返された。
その言葉の裏にあったのは、日本に帰る季節が近づいてきたへの一抹の不安ではなかったろうか。
ユーリはまだ悩んでいる。カイルの傍にいたいと思いながら、それでも故郷を忘れられないのは、この一年、傍でユーリを見てきたカイルが一番よく判っていた。
それにふたりの間でこの問題に付いて話し合ったことは一度もなく、ふたりともなんとなくこれを話題にするのを避けてきた感がある。
カイルは、ユーリの確固たる意志のないままに自分の女とするのは卑怯なことだと思った。
もしもふたりが結ばれる未来があるならば、そのときはきっとこの問題にけりがついたときだと思えば、ユーリとは肉体の繋がりなどとははるかに超越した魂の深いところで結ばれているような気がして、いまはそれだけでよしとしようと思えるのであった。
ようやく気持ちの高ぶりも静まったころ、キックリが夕食の準備が出来たと扉を叩いた。
カイルはすでにユーリも着座しているだろうことを思いながら、平静に装わなくてはならぬと気を引き締めて食卓のある部屋へと向かった。
しかし、煌々とした灯りに照らされた部屋の中へ一歩踏み入った瞬間、カイルはあまりの眩しさに一瞬目を眇めた。
湯気を立てている食事が並べられた向こうに、普段はあまり装いを凝らさぬはずのユーリが恥ずかしそうにしながらも若い女性らしい服を着て座っており、カイルを見つけるなり視線を落して頬のあたりがうっすら赤くなったのを認めたからである。
「…皇子、この服…まえに皇子がくれたものなの…似合う、かな…?」
恥ずかしそうにうつむいて耳まで赤くしながら、肩にかけたベールの結び目を胸の前で所在なげに弄りつつ、ユーリは嬉しそうに言った。
見れば確かにユーリの着ているものは以前王宮専属の職人からじかに見聞してカイル自身が入手したもので、ユーリの黒髪が映えるよう真っ白な絹で出来た手触りのいいものだった。
ユーリの前を通って着座するとき、横目でちらりと見れば、胸元の開き具合を隠すためか羽織ったベールの薄さで、肌の赤みがうっすらとうかがえる。
それになんともいい香りが鼻先をくすぐり、カイルは鎮めたはずの欲望が再び起き上がってくるのを憶えて、あわてて視線をそらした。
食事中、ユーリはちらちらとこちらをうかがっているらしく、そのくせカイルと目があうと慌てて俯き、頬を赤くしながらもじもじと所在なさげに膝のあたりのドレスを弄ってばかり。
横目で見ていると、ユーリは明らかにさきほどの湯殿での続きをせがんでいるようで、なにも知らぬユーリの幼さがいまはカイルには苦しかった。
もちろんこんな状況では食事も満足にできるはずもなく、カイルはそそくさと立ち上がり、不信がる表情のユーリに仕事が残っているとだけ告げると、早々部屋を出てしまった。
立ち上がったとき、美しい眉に皺を寄せたユーリがあまりにも痛々しげで、思わず抱きしめてやりたくなったが、そんなことをしてはもとの木阿弥、カイルは握りこぶしを痛くなるまで握り締め、しばし情熱を鎮めねばならなかった。
仕事が残っていると言い訳したものの、無論言い訳に過ぎず、カイルはしかたなく執務室に篭って窓の外の雪を眺めた。
先ほどよりだいぶ積もってきているらしく、執務室の窓からもはらはらと入り込んでくる雪を眺めていると、さきほどのユーリの白い衣装となんとなくかぶって見え、何ものにも染まらない神聖さはまるでユーリそのものではないかとまで思えてくる。
ユーリを侵食できるものはこの世にひとりとしていないのではないかと思ったとき、カイルは我ながら納得しつつ、一抹の寂しさを感じた。
どれほどそうしていたのだろうか、カイルは遠慮がちに扉を叩く音にはっと我に返った。
外から心配顔で扉を開けたのはキックリで、夜も更けたことゆえそろそろ寝室へお引取りを、と手燭を片手にカイルを迎えにきたらしい。
寝室、と聞いてカイルはなにかにとん、と背中を押されたように思ったが、気を取り直して先導するキックリのあとに従った。
おやすみなさいませ、と寝室の前でキックリが下がったあと、重い心のままに中へ進むと、寝椅子に寄りかかるようにしてユーリがうたた寝しているのを見つけた。
カイルはとっさに風邪を引かせたら一大事と思い、そっとその身体を抱き上げてベッドへ運ぼうとした。
ユーリの身体は先ほどの湯殿で感じたような肌の熱さは失われ、寒いところにいたせいで肩も冷たく、抱え上げた足もすっかり冷えている。
「…ん……」
そっとベッドに降ろそうとしたとき、カイルはユーリの目の端に涙の跡があるのを見て、はっと胸をつかえた。
おそらく今夜の衣装も自分のために装ったものと思えば、なんという非情な男かと我が身を呪いたくもなるが、カイルはユーリを寝かせてその額の後れ毛をかきあげてやりながら、ユーリの肌の熱さを思い出していた。
「…皇子?」
うっすらとユーリの瞳が開いた。
寂しかったの、と訴えるような目を見ないように努めながら、カイルは胸元まで布団を引き上げてやり、しばらく黒髪に指を絡ませたままにしていると、ユーリがいぶかしみつつ、
「寝ないの?」
とカイルの手を取った。
まるで血が逆流したかのような戦慄を背中に覚えつつ、カイルは平静を装って頷き、サイドテーブルに置いてあるワインをあおってユーリの傍らに身を横たえた。
「おやすみなさい」
小さく呟いてユーリはカイルの胸に顔をうずめてきたが、これもいつものこと、今夜こそあんなことがあったから緊張するだけのことなのに、カイルは自分の心臓が大きく脈を打ち始めたのに気がついた。
努めて眠ろうと目をつぶったが、寄り添ってくるユーリの体温、髪の匂い、柔らかい身体に全神経が集中しているようで、容易に眠ることなどできぬ。
そのうちユーリの手が頬に伸びてきて、カイルは思わず目を開けてしまいそうになったがなんとか耐えていると、
「寝ちゃったの?」
と申し訳なさそうに窺うような小さな声が聞こえた。
「眠れないのか?」
眠れないのは自分も同じであったのに、カイルは平静を装いつつなんとかユーリを寝かせようとしたが、ユーリは溢れ出さんばかりの想いを黒い瞳の奥に携えてじっとこちらを見つめている。
いたたまれなくなって口任せにワインなど進めたが、ユーリは寂しそうに背を向けて肩まで布団をかぶってしまった。
抱きしめてやりたいと思うものの、なんとか堪えてカイルも背を向けた。
このまま同じベッドのなかにいてはふたりとも寝もやれずに夜を過ごすことになる、もうしばらくしたら別室へ移ろうかなど考えていたとき、カイルは背中に柔らかな感触を憶えた。
「…皇子…」
切なげに呟いて身体を寄せてくるユーリの、なんとも無邪気なこと、カイルは、呼吸が上がらないよう気をつかいながら寝たふりをしているが、それがかえってユーリの胸の柔らかさ、肩にのせられた手のぬくもり、重ねた脚の細さなど鮮烈に感じられ、なかなかに苦しかった。
そのうちユーリの規則正しい寝息が聞こえてきたが、身体が石になったかのように動かせず、カイルはじっと窓の外の降りしきる雪を眺めた。
カイルには音のない雪の世界のなかで、ユーリの吐息と自分の鼓動だけが妙に響いて聞こえ、溜息つくことしきりであったという。
おわり
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