日の翳る午後 第十一話



 タクシーを待たせたまま、階段を登る。
 丸文字のプレートが揺れる優美の部屋のドアを開く。
 手探りでスイッチをひねると、モスグリーンの整理ダンスに手をかけた。
 とりどりの色が白っぽい蛍光灯の下にまぶしかった。
 かわいらしい下着の並ぶ引き出しの右隅にチェックの布袋がある。
 ちょうど去年の春に夕梨自身が買い整えたものだった。
 夕梨はそれを取り出すと膝の上に置いた。
 重いため息が漏れた。
 背中に気配を感じる。
 次の段を引きだしながら、出来る限りの平静な声を出す。
「しばらく入院することになるから」
 優美が日ごろ好んで寝間着代わりに着ているトレーナーを取りだして、それでは着替えさせにくいことに気づく。
 パジャマを買わなくては。新しいモノを。
 あの子の好きな色で。
「大丈夫よ、心配しなくても」
 これは何度も自分がかけられてきた言葉でもある。
 夫に、医師に、警察官に、駆けつけた両親や義父母に。
 誰もが娘の事故に立ち会った夕梨のことを気遣った。
 まだ、知られていない。
「・・・意識はある?」
 カイルの言葉に、ゆっくりと振り向いた。
 いつかと同じ表情のない顔があった。
「・・・話されたら困る?」
 なぜ、このように挑発的な言葉を選んでしまうのだろう。
 何があったか知れれば、一番窮地に立つのは自分のはずなのに。
 カイルの顔を、一瞬のさざ波のような感情が走った。
 それがどういったものなのか、夕梨には分からなかった。
「困るのは、あなたでしょう?」
 名前を呼ばなかったのは、カイルなりになにかけじめをつけたのか。
 彼が近寄ってくるのを、不思議に冷静に見上げる。
 目の前で膝を着いた姿に、やはり見とれてしまう。
 息を飲むほど綺麗な子どもだと、あの時思ったのだ。
 色素の薄い髪も、透き通った瞳も。
「ねえ、一緒に逃げよう」
 薄い唇が動く。その動きさえ優雅だった。
 夕梨はかぶりを振った。
 それはとても魅惑的な言葉だった。まるで極上の美酒を口にしたように夕梨の中に染み渡ってゆく。
 けれど、恋は壊れてしまったのだ。
 胸の奥でからからと乾いた音を立てながら、砕け散ったかけらが転がる。
 のばされた腕が肩を抱き寄せるのを知る。
 こうされるのが好きだった。
 唇が触れ合おうとする寸前に、夕梨は言う。
「もっと好きな人ができるかもしれない、って言ったわね?」
 止まった動きを、そっと押し戻す。
「できたわ」
 カイルの表情は読めない。彼は可哀想だと、夕梨は思った。
 こんなに綺麗に生まれついていなければ、傷つかずにすんだのに。
「・・・誰?」
 動く唇を眺める。
 こんなに整った造作でなければ、自分も過ちを犯さなかったのだろうか。
 それよりも、彼が傷つきやすい心を持った生身の少年だということにもっとはやくに気づいただろう。
 なにも見ていなかったのだ。
 彼の外見に惹かれただけで、肌を合わせてもなお彼の心までは思いやれなかったのだ。
 これは自分の責任だ。
 カイルの頬に触れる。
 暖かかった。
「あなたよ」
 倦み飽きた日常から連れだしてくれるはずの人物。
 変わり映えのしない日常に、少しずつ摩耗していく自分を、若さという強い光で照らし出してくれた人。
 それは、誰もが夢見る絵空事のような王子様だった。
 白い馬を駆って軽々と抱き上げ、うんざりする日常から連れ去ってくれるはずの。
「でも、あなたじゃなかった」
 本当は誰でも良かったのかもしれない。
 夕梨は目の前にいるカイルを求めていたのではなかった。
 ただ、彼の整えられた指先と、すらりと伸びた身長と、通った鼻梁や穏やかな声に惹かれただけのこと。
 黙り込む少年を見つめる。
 彼はどうして自分に惹かれたのだろう。
 生まれる前から好きだったと、彼は言った。
 その言葉は夕梨を酔わせはしたけれど、それを無条件に信じるほどに夢見る年頃でもない。
 カイルの瞳が暗さを増した。初めて、彼の感情が動くところを目にしたような気になる。
「どういう意味?」
「分からない?」
 分かるはずがない。
 こんなにも身勝手な想いなど、少年の彼には分かるはずがない。
「分かりたくない」
 きっぱりと言うカイルに、夕梨は無理に微笑んだ。
 傷つけた。
 もう、取り返しがつかないほどに、カイルを傷つけた。
「あなたはどうして私を好きになったの?」
「それは・・・」
 開こうとした唇を指をあてて止める。
「あなたは、私の何を知っているの?
生まれた場所、育った場所、よく遊んだ友達、好きな音楽、好きな食べ物・・・私はあなたのそんなものを知らない」
 互いが知っていることはほんの一握り。
 カイルの両親の名前、夕梨の夫のこと。ごくわずかでしかないのに、二人を隔てるには決定的すぎること。
「ふつうの人たちなら、時間をかけて知りあえばいい。でも、私たちにはもうこれからの時間はないの」
 別離の言葉は思っていたよりもたやすく口から流れ出た。
 あまりにも簡単な言葉だからこそ、今までになんども口にする機会がありながら遠ざけていたもの。
 ワタシトアナタハ、イキルミチガチガウノヨ。
 カイルの顔からなにかが消えた。
 まるで無防備な、幼い子どものようだ。
 初めて出会った日、母親のスカートの陰から覗いた顔。
 綺麗な子どもだと思った。
 そうね、生まれてくる子供もこんなにかわいらしいといいわ。
「終わりにしたい、ってこと?」
 カイルの言葉にはどこかしら縋る響きがあった。
 どうしてこんなにも想われるのだろう。
 夕梨には分からなかった。
 今まで一度だって彼のことを理解しようとはしなかったのだと、今さらながらに悔やむ。
 ただ、彼が現れ、その外見に惹かれて伸ばされる腕に身を任せた。
 もし彼のことをもっと知ろうとしていたら何かが変わっただろうか。
 彼の真摯な思いが自分には重すぎることを知って、彼を遠ざけたのだろうか。
「・・・始まってもいなかったのよ」
 残酷すぎる。この拒絶をもっと早くに口にしていたなら。
 ワタシハアナタニ、コタエラレナイ。
 これほどまでに傷つけずにすんだのに。
「酷い女だと思うでしょ?私を憎んでいいのよ」
 憎んで恨んで、もっとべつの優しい思いやりのある女に出会えばいい。
 傷をいやせる柔らかな手をした女性と。
「憎むなんてできないよ、好きなのに」
 俯いたカイルの表情を前髪が隠した。
「ずっと、好きだったのに」
 以前なら胸にときめきを与えるはずの言葉は重かった。
「もっと好きな人ができるわ」
 夕梨は言った。他に言葉が思い浮かばなかった。
 私よりも、もっと若くて綺麗な人。
 年上の女が別れを告げる時に使う、手あかのついた言葉だと思った。
 けれど、他に何が言えるのだろう。
「できない」
 低い言葉と同時に、視界が反転した。
 背中を打ちつけて夕梨は呻いた。
 揺れる蛍光灯と天井は、すぐに覆いかぶさるカイルの姿で一杯になった。
 このまま、激昂した彼の手にかかるのだろうか。
 夕梨は思った。
 それもいいのかも知れない。
 カイルを弄び、家族を裏切り続けた自分にはふさわしい罰だ。
 ただ、残された優美は辛いだろう。
 夫も、育ててくれた両親も。
 息子を犯罪者にしてしまった彼の両親も。
 夕梨はまぶたを閉じた。
 最後の最後まで、ごめんなさい。
 すべて私が悪いんです。
 ぽたりと、なま暖かいものが頬に落ちた。
 後から後からすべり落ちて襟元に流れるそれはカイルの涙だと分かった。
 唇に唇が重ねられる。
 触れるだけの、乾いた口づけ。
 呻いた夕梨の口に、頬を伝う涙が流れ込んだ。
 切ない味が広がった。
 不意に身体にかかる重みがから開放されて、夕梨は瞳を開いた。
 カイルが背を向けるところだった。
 行ってしまう、永遠に。
 肘で身体を起こしながら、彼の背中を凝視する。
 戸口をくぐろうとしたカイルが立ち止まる。
「・・・さようなら」
 小さな声だった。
 永遠の決別だというのにありきたりすぎる。
「ごめんなさい」
 夕梨は床に座り込んで頭を下げた。



 優美が目を覚ましたのは明け方だった。
 病院が用意した簡易ベッドには横にならずに夕梨は一晩寝顔を見守っていた。
 カーテン越しの朝の光にかすかに顔をしかめると、優美は小さくのびをしたようだった。
「優美ちゃん?」
 小声でささやく。
 ぼんやりと顔を向けた優美は、しばらく焦点の合わない視線をさまよわせていた。
「・・・ママ?」
 言葉が出たことにほっとする。
 包帯で白くなった頬に手を添えて、夕梨は説明する。
「大丈夫?トラックに跳ねられたのよ?手術はもう終わったの。
しばらく入院することになるけど、ちゃんと治るってお医者さんが言ってた。
どこか痛いところない?」
 矢継ぎ早の言葉に、優美は瞬きをすると小さく首をかしげた。
「パパは?」
「家に帰ったわ。会社があるし」
 何かあれば連絡するようにとしつこいくらいに繰り返して、夫は帰っていった。
 どんなに心配事があろうとも、仕事には行かなければならない。
 彼はそうやって家庭を支えて家族を養ってきてくれたのだ。
 そう思うと、夕梨は胸が痛くなった。
「帰りには寄るからって。優美ちゃんの目が覚めたって電話をしましょうね。すごく心配していたのよ」
 少しずれた枕を整えながら、夕梨は掛布団に手を添えた。
「お腹、痛くない?気持ち悪くない?」
 優美の顔がわずかに上気した。
「大丈夫。麻酔、効いてるのかなあ」
 そっと額に手を当てる。白い布の感触が柔らかかった。
「お祝い、しなきゃね。退院後に」
「そんなの、いいよぉ」
 わずかに照れ笑いが優美の顔に浮かぶ。
 その笑顔に夕梨はほっとする。
 同年代より体の小さい優美は痩せていてそれで発育が他よりも遅かったのかも知れない。
 体質的に自分に似ているのかも。
 そう思った夕梨の耳に、小さな声が届いた。
「カイルは?」
 とうとう、この時が来てしまったのだ。
 一つ息をつくと、夕梨はスツールの腰を下ろした。掛布団の中の優美の手を取る。
「お祖父ちゃんたちのところに行ったわ。あっちで暮らすことになったの」
 これからは夕梨も看病で大変だからと、義父母から申し出られたことだった。
 異存はなかった。夕梨にもカイルにも。
 優美はしばらく母親の顔を見つめていた。
「・・・ねぇママ」
 小さいがしっかりした声だった。
「ママはどうしてパパと結婚したの?」
 どうして、子どもは皆同じ質問をするのだろう。
 あの日、幼いカイルが真っ直ぐに見上げて訊ねたのと同じことを、今は優美が真っ直ぐな視線で訊ねる。
「あたしがいたから?」
 胸を突かれる。
 アルバムに綴られた両親の結婚写真の日付と、自分の誕生日との時間差に、すでに優美は気づく年齢ではある。
 そのことで今までに優美が胸を痛めていたとは思えない。家族は幸せに暮らしていたのだから。
 けれどあの時、優美は母親の秘め事を知ってしまった。
 家族を裏切る母親への嫌悪感よりもなお、自分の出生の理由にまで思いを馳せていたのなら。
 夕梨は握る手に力を込める。
 誰よりも大切なのだと、伝えなくては。
「パパと結婚したのは、パパのことが好きだったからよ」
 どんなわずかな時間でさえ一緒にいたいと思っていた。そばにいるだけで暖かい気持ちになれた人。
「だから、優美ちゃんが生まれたの。パパもママも一日も早く優美ちゃんに会いたかったの」
 身体の変調を知った時、とまどいと喜びがあった。すぐに氷室に電話をした。
 彼なら喜んでくれると疑わなかった。実際、氷室はすぐにかけつけて夕梨の手を握ってくれた。
「あのことは・・・」
 生々しい言葉は避けたかった。『女』になったばかりの娘にはまだ刺激が強いだろう。
「ママが悪かったの。ママは酷いことをしたわ」
 優美の瞳から涙がこぼれ出す。
 握りしめる手には力がない。責められているのだ。
「・・・パパに話してもいいのよ?覚悟はできているから」
「言えないよ、パパがかわいそうだもん」
 ぽつりと優美が言う。頬を伝う涙が、包帯に染み込んでゆく。
 優しい娘になるように。そう願いを込めて名付けたのだった。
 この子はこんなにも優しいのだ。母親の罪を責めるより、さきに父親のことを心配する。

 優美の手がそっと夕梨の手を握り返す。
「それに、ママもかわいそう」
 その言葉に、涙があふれた。
 優しい娘をも裏切っていた。
 あのことがどのように周囲を傷つけるのか考えもせずに。
「ごめんね」
 誰もが優しい。
 この優しさにどうやって応えていけばいいのだろう。
 これから一生かけて償っていこう。
「ごめんね、ごめんね」
 優美の手を握りしめたまま夕梨は謝罪の言葉を繰り返し涙を落とし続けた。





                             おわり
    

      

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