予兆


 いやな予感がした。
 一瞬背筋を駆け抜けた震えに、ボクはマントをきつく巻きつけた。
 これは予感などではなく、体の不調からくるもの・・・例えば、風邪の予兆とか。
 そう思いこもうとした。
 交通の要衝にある都市はいまだうっすらと雪化粧をかぶったままだ。
 ところどころに薄青く煮炊きの煙を立ちのぼらせている市街を見下ろして、ボクは頭を振った。
 この街の知事を拝命してからまだ半年も経っていない。
 まとわりつく妹や弟、瞳に涙を溜めて手を握りしめてきた母上を残して、生まれ育ったハットウサを発ったのは秋の頃だった。
 頻繁に書簡を交わすとはいえ、さすがに家族を思うと淋しい。
「殿下」
 側近がひかえめに呼んだ。
 ボクは胸壁にかけていた足をおろすと振り向いた。
「なんだ?」
 ここに赴任して以来、早朝と夕暮れ時の見回りを日課にしている。
 ちょうど食事の支度の始まるころに街を眺めるのが一番好きだと言ったのは母上だった。
 立ちのぼる煙の下に、ささやかだが穏やかな人々の生活があり、それを目にすることで自分のすべき事を確かめるのだと、そう言っていた。
 その教えを守るように、ボクもこうやって城壁から人々の営みを見下ろしている。
 なぜ今日はこんなに母上のことを思い出すのだろう。
 あの膝が恋しいとでも言うのだろうか。
 いまだ乳離れしていない子どもでもあるまいに。
 苦笑しながら、数歩の石段を下りる。
 片膝をついたままの側近に尋ねる。
「なにごとだ?」
 彼とは幼い頃からのつきあいだ。赴任先への随員に父上が真っ先に選んだ男でもある。
 見慣れた肩が強張っていることに気づく。
「なにかあったのか?」
 また、先ほどの冷気が背筋を走る。
「ハットウサから、急使が」
 固い声で彼が言った。
 嫌な予感は確信に変わりつつあった。
 絞り出すような声で、彼の言葉は続いた。
「皇帝陛下からの、密使にございます」
 反射的に、差し出された書簡を受け取った。
 固い粘土で包まれたそれは、小ぶりにもかかわらず手のひらにずしりと重かった。
 あの父上が密使を送ってよこしたのはどんなことなのか。
 いずれにせよ、帝国の将来を左右することに違いない。
 ボクは先ほどから冷え切った背中がびっしりと汗で濡れているのを感じる。
 食い入るような側近の視線を感じながら、城壁の石にぶつけて書簡を開封する。
 現れたのは、さらに小さいタブレットだった。
 書かれていたのはたった一言。
『至急、ハットウサに戻れ』
 ボクはマントの裾を掴むと身体を翻した。
「殿下っ!」
 追いすがる側近が訊ねる。
「いかがされましたっ!?」
「ハットウサに戻るぞ」
 石段を数段飛ばしに駆け下りながら、指示を出す。
「供回りはいらない、替え馬の手配を!」
 駆け抜ける風景の中、懐かしい顔が浮かぶ。
 最後に目にしたのは泣き顔だった。
 父上に抱きとめられるようにして、丘の上で手を振っていた姿。
 この胸騒ぎは母上だ。
 母上の身になにかが起こったのだ。
 守護神ともいえる女神になにかあれば、この国とて無事にはすまない。
 民の動揺ははげしく、今は女神の威光に頭を垂れている諸外国も遠慮をかなぐり捨てて襲いかかってくるだろう。
 よけいなことを語らない父上の書簡が、これはただごとではないのだと告げる。
 それよりもなによりも
 ハットウサまで不眠不休で飛ばして3日。
 どうか、無事で。


 ハットウサに着いたのは、ちょうど太陽が地平から顔を出す頃だった。
 門番が重い樫の扉を開くと、門の外に待ちかまえていた商人達の荷車の列がのろのろと動き出した。
 悪いとは分かっているが、その間を馬を駆って走り抜ける。
 ここまで従ってきた側近がすばやく飛び降りて通行証を差し出したおかげで足を止められずにすんだ。
 ボクは馬に鞭をくれて王宮を目指した。
 ボクの姿を認めて、声を上げる衛兵を無視して、中庭まで駆け込む。
「ピア!?」
 騒ぎを聞きつけて飛び出してきた兄上が目を見張った。
「どうしておまえが?」
「話はあとです!」
 兄上を押しのけるようにして真っ直ぐに後宮を目指す。
 廊下ですれ違う官吏や女官たちは一瞬ボクの姿に目を見張るが、すぐに何ごともないかのように頭を下げた。
 そう、なにごともないかのように。
 すべてはまだ伏せられたままなのだ。
 ボクは知らずに唇を噛んだ。
「まさかおまえが帰ってくるとは思わなかったよ。父上が呼んだのか?」
 兄上が早足で追いつきながら小声で話しかけてくる。
 ボクは歩調をゆるめずに頷く。
「馬を乗り継いできました。母上のご様子は?」
 兄上の声は重く沈んだ。
「・・・相変わらずだ。打つ手なしだな」
 息が止まりそうだった。
 一度強く目を閉じると、思い切って母上の居間の扉を押し開いた。
 部屋の真ん中に父上が見えた。どこかやつれた様子で椅子の肘にもたれておられた。
「父上!」
 弾かれたように父上は顔を上げる。
 驚愕と喜色が広がる。
「ピアか!?間に合ったのか!」
 そう、間に合ったのだ。
 ボクはすばやく室内を見まわした。奥に見えるのは母上の寝室の扉だ。
 あの向こうに母上がいる・・・。
 深呼吸をすると、ボクは一歩踏み出した。

「あら、ピアじゃないの!?」
 場違いに明るい声に、一瞬膝から力が抜けた。
 おそるおそる振り返る。
 扉のそばに立っていたのは小柄でほっそりとした身体、艶のある黒髪、きらきらと輝く黒い瞳、薔薇色の頬。
 みたところ、少女と言っても通るような・・・
「は・・ははっ・!?」
 驚きのあまり呼吸困難に陥っているボクのまえに、弾むような軽やかな足取りでヒッタイトの女神は現れる。
「やだ、帰ってくるなら帰ってくるって言ってよ!」
 ぴょこんとボクの顔をのぞき込んだ母上はとてつもなく元気そうだった。
 死にかけていたんじゃないのか?
「母上っ、お加減はっ!?」
「元気よぉ〜マリエもシンも喜ぶわ!」
 母上が近寄ると、何とも言えない匂いがした。
 この香りは・・・
 ボクの背筋を悪寒が走る。
「でも、良かった!ちょうど、バレンタインのチョコレートケーキが焼けたところだったの!」
「バ・・・レン・・タイン」
 頭の中が閃いた。
 振り向くと、投げやりに椅子に腰を下ろしている父上を振り返る。
「父上っ!?」
 謀られた!
 あの時の不吉な予感はこれだったのだ。
 父上は口の端をゆがめてボクを見た。
 なんて人だ!実の息子を陥れるなんて!!
 そうだ、ここを発つ時にボクが言った言葉を根に持っていたに違いない。
『ハットウサを離れるのは淋しいのですが、母上の手作りのケーキを食べずにすむのは嬉しいですね』
 ボクが睨み付けている目の前で、父上はこれ以上もないにこやかな笑顔を浮かべた。
 まるで先ほどの投げやりなど無かったように、優しく腕を伸ばす。
「今年は少し小さいんじゃないのか、ユーリ?」
「だって、ピアがいないと思っていたんですもの」
 拗ねたように母は言うと、真っ黒な物体を載せた皿を差し出した。
 異臭の源はそれだ。
 焦げている。今年は何を入れたのだろう?
 いや、聞かない方が良い。
「そうか、仕方がないな」
 父上は母上ごとケーキを膝の上に抱え上げた。
「しかし、せっかく顔を見せてくれたんだ」
 憮然としているボクの顔を眺めたまま、母上の頬に唇を押し当てた。
 母上はくすぐったそうに身をよじる。
 相も変わらず子どもの前だろうがお構いなしだ。
 父上はとろけそうな声だけれど、目だけは笑わずにボクを見た。
「今年はおまえがたっぷり食べるといいよ、ピア」
「良かったな、ピア?」
 ボクの肩に、ぽんと手が置かれる。
 兄上が上機嫌の声で同意した。

      ・・・・ぐれてやる

   

    

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送