多忙月桜曜日
忙しい。
春先と言えば、新年祭やその他の神事がめじろおしで、おまけに冬の間にどんなに気をつけても一つや二つの村で雪解け水の被害が出る。
暖かくなった気がして薄着で走り回る子ども達はいつのまにか風邪をひいてみたりする。厳しい寒さの地の季節と、焼けつく火の季節との間隙を縫うように、各国の使節や商人達が押し寄せてくる。
だから、忙しい。
我ながらものすごい勢いで書簡に目を通し、読んだ文字を頭が理解する前に書記官に口述筆記を命じているあたしの真横に、なぜだかカイルが立った。
「しわができている」
聞き逃すにはゆゆしい言葉を、まるで通りすがりの挨拶のようにさらりと言ってのけたカイルに、あたしは片眉を吊り上げた。
「なんですって?」
カイルは憎たらしいくらいにゆっくりと身をかがめると、あたしのおでこをつついた。
「眉間にしわができている」
「そりゃ、そうでしょう」
あたしは自分の前の一山をカイルの方へ押しやった。
「とりあえず、皇帝陛下がこの陳情リストに目を通してくださるとしわも消えるかもね」
書記官は律儀にも宛名通りに書簡を分けてよこす。
カイルの前より、あたしの方に持ち込まれる苦情が多いって不公平だ。
カイルは真面目に一番上の一つを手にとって読み上げる。
「『隣の老女の家のメンドリが産んだ卵は、半分は私のもののはずなのに老女は納得しない』」
「その人の家にはオンドリがいるの?」
「いるのだろうな」
ため息をつくなんてことはしない。こんな話はざらなのだ。
「卵を温めてみてヒナになれば解決するよ」
でも、もしヒナにならなければ卵は腐ってしまうから、老女がソンするのか。
むむ・・・これは熟考を要するわ。
「とりあえず、オンドリとメンドリの逢い引きを阻止することだな」
カイルは楽しそうに言うと、陳情書を机に戻した。
にっこり笑ってあたしの耳元に口を近づけてささやく。
「そして、引き裂かれるニワトリの恋人たちをしり目に、私たちは少し羽根を伸ばすとしよう」
低い声が耳たぶをくすぐってぞくぞくする。
「・・・だめよ」
魅力的な申し出ではあるけれど、目の前の政務を投げだすなんて。
あたしは精一杯背筋を伸ばして、居並ぶ書記官たちを見渡した。
「今日中に片づけないと、明日には明日の書簡が届くんだから」
「そしてあさってにはあさっての?」
考えたくもない。エンドレスに積み上げられる仕事、仕事、仕事。
カイルは鷹揚にうなずくと、一番古参の書記官に命じた。
「皇妃への陳情書に目を通し、適切な処理を」
「陛下!?」
とがめるあたしの腰を抱き寄せて制すると、真面目な顔で言う。
「今すぐにここを出ないと、取り返しのつかないことになるぞ?」
「・・・なに?」
大まじめにまたあたしのおでこをつついて、顔をしかめてみせた。
「しわが取れなくなる」
「!!!」
あんぐり口を開けたままのあたしを腕に、書記官に『届いたモノを持ってくるだけなら人足にだってできる』なんて説教している。
今がどんな時期だか分かってるのかしら?
「さて、行こうか?」
それでも振りむいた顔が憎らしいほど素敵すぎて、あたしは引きずられるまま執務室を出た。
「カイルったら、知らないから!」
非難しながらもあたしの声はずいぶんと弾んでいたような気がする。
明日の仕事はとりあえず、頭の片隅に追いやろう。
出てきちゃったものは仕方がないから。
こんな陽気の日に、一日閉じこもっているなんて不健康だわ。
「世間ではとうに花の盛りなんだぞ?」
カイルは嘆かわしいと、頭を振った。
「私たちが執務室に軟禁状態な時に、我が愛すべき臣民達は花見だ、ピクニックだと浮かれているんだ」
「でも、仕事が」
「ほら、ごらん」
カイルは回廊から見える大きな木を指した。
「もう、葉が出てしまっている」
日当たりの良い城壁に沿って、同じ高さの木が並んでいる。
春先に真っ白な花をもりもりと咲かせるそれは、うかつにも桜の木だった。
なぜ『うかつ』かと言うと、あまりにあたしの知っている桜の花とは違いすぎて、秋になって山のようにサクランボが実るまでそれとは気がつかなかったからだ。
桜って、もっと儚くて楚々とした花で、ふわっと天蓋みたいに広がって咲くのではなかったかな?あたしのイメージだけど。
この桜はまるで出来の悪い粘土細工みたいに枝に沿って盛り上がるようにぼこぼこ咲く。
とりあえず、ここに桜の木(しかも桜林)があることを知ってから、あたしの夢は『いつかはこの下で盛大な花見会を開くこと』になった。
無礼講みたいな感じで盛り上がれば楽しいかな、と思って。
・・・あんまり楚々とはしていないか。
けれど、悲しいかな、どんなに元気よく無神経に見えても、そこは桜と名乗るだけあって花の命は短すぎる。
気がつけば、葉桜になってしまっているんだよね、ここは日当たりも良いし。
なにしろ、この季節はバタバタしているから・・・。
今年もだめか。
つんつんとのびだした黄緑の葉っぱを眺めて、あたしはまたしても何年目かのため息をつく。
来年こそはばりばり仕事を片づけて・・・。
だいたい、この時期って公式行事が多いから溜まっちゃうんだよねえ。
いつもの憂鬱におちいりそうなあたしにお構いなく、カイルはずんずん桜に近寄っていく。
仕方がない、葉っぱと半分ずつだけど花でも楽しもうか、と思った時。
ふわりと淡い影が揺れる。
透き通るような白に、ほんのり隠された赤味。
たとえて言うのなら、桜色・・・。
「あ・・・?」
ずっと以前に、故郷で目にした桜のような淡紅の風が木の間で揺れた。
「桜?」
あたしの言葉に、カイルは微笑むと腕をまわして抱き上げてくれた。
木々の間に張り巡らせるようにして淡い色の布が揺れている。
「あまりおまえが惜しむから、染めさせた」
それは明るいオレンジから、透き通る桜色までの柔らかな布だった。
「一見、真っ白な花に見えるのだがな」
そして、あたしが『桜』だと思った一枚をたぐりよせる。
「花の咲く短い季節にしか、染料にならないそうだ」
ふわふわの桜色をあたしに巻きつかながらカイルは微笑んだ。
「本当の花はもっと白いが、この色がおまえに一番似合う」
「だって・・・」
これがあたしの『桜』の色だから。
言いかけた言葉を、あたしは飲み込んだ。
カイルがあんまり嬉しそうに、降ってくる花びらを受け止めていたので。
カイルの『桜』は元気いっぱいの枝を四方八方に伸ばしている。
なんのてらいもない白い花のどこに、こんな艶やかな赤がひそんでいるのだろう。
「来年こそは花見だな」
「そうだね、今から計画を立てなきゃ」
「うまく脱走する方法の、か?」
その時は、この桜色でドレスを作ろう。
青い空にぐんぐん伸びる枝を見上げて、おんなじように手足を投げだして。
窮屈そうに折り曲げた身体を伸ばそうとする新芽をつつきながら、あたしとカイルは顔を見合わせて笑った。
おわり
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