はじめの第一歩。



「ふたつあるわ」
 かあさまが言った。
 かあさまの手の上には、ながぼそい綺麗な箱がのっている。
 黒いつやつやした木の上に貝殻や光る石がはめ込んであって、とても綺麗な箱だ。
 ぼくの腕にしがみついていた指にぎゅっと力がこもるのが分かる。
「こっちもふたつ」
 机の上の大きな箱から、こんどは木でできた四角いわくが出てくる。
 その中に粘土を入れて上から押さえると、ちゃんとした粘土板ができるんだ。
「ふたつ、だと?」
 ちっちゃなマリエをだっこしたまま、とおさまはちらりとこちらを見た。
「さすが、姉上だな」
「ペンも全部、ふたつずつ」
 太いのは小さい子どもの練習用、細いのは大人が使っているのと同じだ。
 かあさまはアシでできたペンをさっきの綺麗な箱に入れてパチンと蓋を閉じた。
「とっても綺麗ね」
 それから、ぼくの方を見てにこりと笑った。
「ネピス・イルラ皇女さまがお祝いを下さったよ、デイル」
「ピアのはっ?」
 ぼくの横でピアが大きな声を出した。
「ピアのもあるんでしょう、かあしゃま?」
 全部ふたつずつあるってことはそういうことだよね?
 かあさまは困った顔をして、うなずいた。
「あるわね、ピアの分も。でもこれはお祝いだから、ピアがお勉強を始めるまでとっておこうね?」
「やだ!」
 ピアはぼくにしがみついたまま、足をばたばたさせた。
「にいしゃまがおべんきょうするなら、ピアもするの!」
 たぶん、ピアならそう言うと思っていたけどね。
 ぼくはピアがバタバタするので、つられてぐらぐら揺れながら考えた。
 ピアったら、こどものくせに、なんでもぼくと同じことをしたがるんだ。
 でも、子馬はこわいと言って乗るのをやめたし、弓のけいこだって手が痛いと言ってやめてしまった。
「ピアにはまだ早いわ」
 ぼくと同じことを考えたのか、かあさまが言う。
「やだやだ〜〜っ!!」
 とおさまが立ち上がった。ああ、ピアったら叱られる・・・。
 とおさまはマリエをひょいと片腕に抱くと新しい勉強道具をとりあげた。
「いいじゃないか、ユーリ」
 あれ?なんだかいつもと違うよ?
 とおさまはぼくたちが座っている長イスの前にやってきた。
「ピアが勉強したいと言うんだから、やらせよう」
「でも・・・」
 とおさまは新しい勉強道具を、ピアのひざの上に置いた。
 そうして、ぼくたちの前にひざをついた。
「先生がお話しされている時は静かにできるか、ピア?」
 ぱたんと足をおろして、ピアはこっくりとうなずいた。
「できる」
 ピアはとおさまの顔を見たまま、ひざの上の綺麗な箱をなでた。
 そばで見ると、ほんとうにうっとりするぐらい綺麗だった。
「分からなくても泣いたりしないか?」
「しない」
 ちょっぴり目元についた涙をぬぐいながら、ピアはとおさまに言った。
 かあさまがぼくのところに勉強道具を持ってきてくれる。
「約束だぞ?」
「やくしょく、する」
 かあさまはとおさまに困った顔のままくりかえした。
「ピアにはまだ早いわ、カイル」
「怪我をする危険はないのだから、いいだろう?」
 そうだね、勉強なら怖かったり痛かったりしないもの。
 とおさまは、ぼくの方を向いてあたまを片手でぐしゃぐしゃかきまわした。
「頑張るんだぞ、デイル?」
 ぼくはピカピカの勉強道具を持ち上げて、手をのばすマリエに届かないようにした。
「うん、がんばるよ」
 お勉強もだけど、ピアの面倒もみなくっちゃね。



 せんせいは真っ白なおひげのおじいさんだった。
 とおさまも、おじさまたちもこのせんせいに習ったんだって。
 でもその時はこんなにおひげは長くなかったって。
 かあさまは頭を下げているせんせいよりも、もっとふかぶかと頭を下げた。
「どうぞ、よろしくお願いします」
「陛下のお若いころを思い出しますな」
 せんせいはにこにこと言う。
 黙っているといかめしいけど、笑うと目の横にやさしそうなシワができる。
「どちらの御子もよく似ておられる」
「似てますか?」
 かあさまは驚いたようにぼくとピアをふりかえった。
 ぼくはかあさまと同じ髪と目の色で、ピアはとおさまと同じ髪と目だから、あんまり似ていないと言われている。
 ピアはぼくの服を握ったまま、あちこちきょろきょろと見ている。
 せんせいのへやは巻いたパピルスや石板や粘土板やいろんなものが並んでいる。
 ぼくも本当はあちこち見てみたかったんだけど、皇子らしくまっすぐに立っていた。
「皇太子殿下はあの日の陛下と同じように落ち着いていらっしゃるし、ピア殿下はお姿が陛下にそっくりです」
「まあ」
 かあさまはくすぐったそうに笑うと、きょろきょろしているピアの肩をだいた。
「まだ小さいですけれど、本人がどうしても、と」
「学問は学びたい時が始めどきです」
 せんせいはうなずくと、机の方に行った。せんせいのイスは背もたれが大きくて、両ひじをおくところもある。『がくしゃ』のイスだ。
 ほんとうはせんせいはとっても偉いがくしゃだから、大人しか教えないんだって。
 でも皇帝の皇子は特別にせんせいがお勉強をみてくれる。
 ぼくとピア用には、背の高い丸いイスとそれに登るための小さな台がならんでいた。
「さっそく始めますが、ご覧になられますか?」
「では、少しだけ。でも仕事があるので途中で失礼しますが」
 かあさまは言うと、ぼくとピアの背中を押した。
 ぼくたちはおばさまからいただいた勉強道具を抱えてイスによじ登った。
 けっこう高くてたいへんだった。
「では、始めます」
 いよいよお勉強開始だ。
 ぼくたちはせんせいと同じように粘土板を取りだした。
 せんせいはぼくたちの顔をぐるりと見た。
「なにか書ける文字はありますかな?」
 ぼくはまだ勉強は始めてなかったけど、なまえは書けた。かあさまが教えてくれたからだ。
 たいらな粘土板の上に大きくペンを押しつける。
「ほう、すばらしいですな」
 せんせいが言うと、ピアもペンをつかんだ。
 なんだかいっしょけんめいに書いている。
「ピアもかいた」
 ちょっぴりまちがっているけど、ぼくの名前だった。
「うむ、すばらしい!」
 せんせいは目を細めるとかあさまに言った。
「どちらの皇子も将来が楽しみですな」
「まあ!」
 かあさまはとても嬉しそうだった。
 それから、せんせいは『デイル』のどの部分が『デ』の字かを説明して、それを使った他の言葉も教えてくれた。
 かあさまはしばらくしてそっと出て行った。


 言われた字をなんども書く練習をしていると、ピアは足をパタパタ動かしはじめた。
 ぼくはそっとピアのひざに手をのせてやめさせた。
 だって、静かにしなきゃ、ね?
 せんせいが、とおさまよりも何人も前の最初の皇帝の話をしているときに、ピアがなんどもあくびをするのが分かった。
「しぃ〜〜っ、ピア!」
 ピアはなみだ目でぼくを見た。
「しずかにするんだろ?」
「おほん」
 せんせいがせきばらいをする。
「ごめんなさい」
 ぼくはあやまった。


 お勉強の時間が終わると、ぼくたちはイスをおりた。
 慣れるまではちょっとのあいだだけなんだって。
「それでは、また明日」
 せんせいにあいさつをすると、ぼくはピアと手をつないで外に出た。
 新しい勉強道具をしっかりかかえる。
 おばさまにおれいのお手紙を書かなくちゃ。
 あした、せんせいに書き方をきこう。
 ぼくは考えながら歩いたので、ゆっくり歩くピアをひっぱってしまった。
 ぼくは立ち止まってピアをふりかえった。そうだ、ちゃんと注意しておかなきゃ。
「しずかにしているって約束したじゃない」
 ピアは目をしょぼしょぼさせていた。
「だって・・・」
「お勉強するって言ったの、ピアだよ?」
 かあさまは心配していたのに。
 また今回もやめちゃうのかな?
 でもそんなことをしたら、ピアがお勉強をする時に、せんせいは教えてくれなくなるかも。
「だって・・・」
 ピアはもごもご言うと、ぺたんと廊下にすわりこんだ。
「だって、あたまが痛いの」
 それから、ころんと横になった。
 ピアの顔は真っ赤だった。
「ピア?」
 ぼくがゆすっても、ピアは動かなかった。



「知恵熱か」
 とおさまがピアのベッドのそばで腕組みをしている。
 困っているような笑っているような顔だ。
 お医者さまが出て行ったあと、ぼくはようやくピアのそばに行ってもいいと言われた。
 ぼくがのぞくとピアは真っ赤な顔のまま眠っている。
「だからピアにはまだ早いって・・・」
 かあさまは両手を頬にあてて困ったように言う。
「それにしても、入学一日目に熱を出すなんてねえ」
「よっぽど難しかったんだな」
 とおさまの言葉にぼくは首をかしげる。
 だって、字の書き方を習ってお話を聞いただけだよ?
 でもピアはちいさいから難しかったのかな?
 ぼくはかあさまの服をひっぱった。
「ピアは明日はお休みなの?」
 それともいつもと同じにやめちゃうのかな?
「さあ、どうかしら?」
 かあさまは言いながらも、机の上のぴかぴかのピアの勉強道具をそっと持つと、小さな弓や剣なんかがしまってある戸棚に入れた。
 戸棚はピアが「もう少し大きくなったら」使うモノばかりが入っている。
「せっかく、皇女さまの贈り物だったのに」
「おそらく姉上はこのことも見越しておられるな。いずれにしてもやってみないことにはピアはおさまらないから」
 かあさまが扉を閉じたとき、ぼくはもう明日からはピアはせんせいのところに行かないってことが分かった。
「ざんねんだね」
 言うと、かあさまはぼくのあたまをなでてくれた。
「デイルは大丈夫よね?」
「うん、ぼくはお勉強もせんせいも好きだよ」
 だからいっぱい勉強してピアがぼくとおなじ年になったときには、ピアに教えてあげるつもりだ。
 だって、ピアってせんせいの顔を見ながら、全然べつのことを考えたりするんだもの。
「そうね、よかったわ。入学おめでとう、デイル」
 そう言われると、なんだかすごく大人になった気がした。

 ぼくは嬉しくなってぼくの木箱を抱きしめた。
 木箱からはつんとけずりたての木の匂いがした。

                        おわり

    

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