Tirta E


第五章 ティエルタ 後編



 風が頬を撫でる。それは砂の混じったざらついたものではなく、くすぐったい香気を含んでいる。
 ファナは目を閉じてしばらくの間、頬を過ぎるその感触を楽しんでいた。
 さわさわと間断なく音は流れる。
「姉ちゃん!」
 呼び声に物思いから引き戻されるように目を開く。たちまち、まぶしい輝きが飛び込んでくる。
 一面に広がる、緑の波だ。
 ファナは青い草いきれを吸い込むと、手を腰に当てて声の方向に顔を向けた。
 揺れる葉の間を縫って、駆け寄ってくる弟たちの姿。
 彼らが一様に泥にまみれているのを見て、たちまち顔をしかめる。
「あんたたち、水路に入っちゃだめって言ってるでしょ?」
 水路の中は暗くて水が轟音を立てて流れている。幼い頃から水浴びすら満足にしたことがなかったファナは今でも流れに足を浸けるのが怖い。
 あの水の流れに巻き込まれたら、と思うのだ。
「だってこんなのがいたんだ!」
 すでに泳ぎを覚えた弟たちは得意げに手のひらを突き出した。
 宝石のように光る生き物が載せられている。
「カエルだって!」
「これがたくさんいると旱魃にならないんだって!」
 小さな緑に輝く生き物に目を奪われて、ファナはかがみ込んだ。
「水路にいたの?」
「そう、どっかから流れてきたんだよ」
 胸を張る弟の頭をこぶしで軽く叩くと、ファナはもう一度顔をしかめて見せた。
「だからって、水路に行くんじゃないの。危ないでしょ?」
「だって、エンキが行こうって言ったんだ」
 泥だらけの手でぶたれた場所を押さえながら、弟はむくれた。
「エンキ?」
 聞き返すファナの耳に忍び笑いが聞こえる。
 ファナは身体を伸ばすと、声のした方を振り返った。
 ひょろりと細い姿があった。
 相変わらず、身体に合わないぶかぶかの灰色の外套を着ている。
 数年前と少しも変わらない姿に、ファナは目を見開いた。
「エンキなの?」
「驚いたなあ、ファナ?」
 水路に踏み込んだのだろう濡れてしまった外套の裾をからげながら、元学者見習いはまぶしそうに目をすがめた。
 ファナは、あれから随分と伸びた背をこころもちそらしてみせる。
 こうやって月日が流れてみれば、見上げるようだと思えたエンキもそうそう背が高くないことに気づいた。いや、大きくなったのは自分の方なのだ。
 肩はなだらかに丸みをおび、ふくらんだ胸は薄い生地を持ち上げている。伸びた髪を一つにまとめて、乱れないように布で押さえる。もう、誰が見ても一人前の女だった。
「来ているなんて知らなかった」
 他に供の者はいないのかと伸び上がってあたりを眺めるファナに、エンキは言う。
「一人旅がてら水路の調査なんだ」
「一人旅で?」
 王宮付きの学者が一人で出歩くなんて、と言いかけてファナは思い直す。彼は昔から変わり者だった。
 子どものように目を輝かせて、掘り返した土塊を飽きずに眺めていた。
「で、水路の調査の結果は?」
「満足のゆくものだ」
 誇らしげに、エンキは一面の麦畑を見まわした。
 風が吹くたびに、光の波が起こる。地平から、押し寄せてくるように。
「緑の波は気に入った?」
 いつかの会話を思い出したように、エンキは訊ねた。
 ファナが見たがった光る波がそこにあった。
「気に入ったよ、とても」
 ファナも目を細めて思い出す。それは想像していたよりもずっと心躍る風景だった。
「麦はいいね」
 言いながら手近の穂先に手を伸ばす。まだ熟しきっていない、つんと頭を尖らせた青い穂だった。
「これはあたしたちが育てた麦なんだね」
 やがて、この麦たちは重く頭を垂れるようになる。
 見渡す限りの黄金の波が広がるようになる。
 ファナは思い出す。水路が引かれてから、最初に作付けした麦が芽を出した時の騒ぎも、その麦がぐんぐんと背を伸ばした時の驚きも。それよりなにより、すくい上げた金の粒が指の間を滑り落ちていった喜び。
 もう飢えることはない。誰かが叫んだ。
 麦は毎年育ち、いつしか乾いて荒れ果てた地面は緑の波で覆われた。
「あんたに、お礼を言わなきゃ」
「お礼だなんて」
 エンキは照れた時のくせでまぶたをごしごしと擦った。
 拳が汚れていたのか、たちまち顔に泥が塗りのばされる。
 ファナは笑いを含んだまま腰に巻きつけていた布を引きだすと、エンキに手渡した。
「もう、誰にも施しなんてうけなくていいんだね。あたしたちには、あたしたちの育てる麦がある」
 今なら、分かる。あの時、一生施しをうけるつもりなのかと訊ねた彼の言葉が。
 まっすぐに空を目指して伸び続ける麦の穂は、同時に自分たちの誇りも育てた。
 自分たちが掘り抜いた水路からくみ上げた水で、自分たちの播いた麦が実る。
 エンキはもう一度まぶしそうに瞬きをした。
「また、水路を引こうと思うんだ」
 熱中した彼がいつもそうであったように早口で喋り始める。
「ようやく、主要な幹線路が整備できたから、これからは分水路を整備していこうと」
 水路のことになると、彼は決まって早口になった。
 ファナは顔も拭かずに布を握りしめたままのエンキをもう一度、見つめた。
 あの時から、少しも変わらない。着るものにも食べるものにも無頓着で、子どものように大きな夢を抱えた姿。
 少しなまりのある言葉もそのままだ。
 そんな彼が指揮して水路を掘り抜いた。初めて水路から冷たい水がほとばしった時、抱き合って泣く大人達の間で、彼だけが得意そうに胸を張っていた。
「それって、またあたしたちが掘るの?」
「いやかい?」
 心配そうに訊ねた彼に、頭を振る。
 あの時の喜びを、まだ誰も忘れていない。
「ううん、きっとみんな張り切るよ。・・・・ウチのひとも」
「ウチの人?」
 反復するエンキにうなずき返す。
「そう、ウチのひと。アグンだよ」
「アグン・・・」
 エンキはしばらく頭をひねっていたが、やがていつもファナと一緒にいた少年を思い出したのか、うなずいた。
「アグンか!結婚したんだな」
「所帯を持ったの。弟たちも引き取って、家族で暮らせるようになったから」
 あぜ道を走り回っている姿に目を向ける。収穫は、家族を養って余りあった。
「アグンはね、自分が水路を引いたんだって自慢している。それからね、イシュタル様に助けてもらったこともね」
「イシュタル様?」
「姉ちゃんだっていっつも自慢してるぞ!」
 麦の間から飛び出した弟が、ファナの腰にしがみついた。
「アグン兄ちゃんはイシュタル様に命を助けてもらったって!」
 泥だらけの頭を小突くと、ファナは笑った。
「そうだよ!姉ちゃんはイシュタル様と直接お話ししたんだから!」
 誇らしげに言うと、弟の腕を掴んだ。
「あんたも遊び回ってばかりいないで、手伝いなさい!水くみがあるのよ?」
「はぁい」
 その姿に、またエンキは目を細めてまぶたをこすった。
「そうか、イシュタル様か」
 いつか、その名を聞いて少女だったファナが顔を強張らせたことを思い出す。
 あの時、少女の身体の中ではち切れそうだった怒りを確かに感じ取ったのだ。
「エンキ、あんたまだ見回りがあるの?」
「そうだな、まだ少し」
「じゃあ、終わったら、ウチに来てよ。夕食をご馳走するよ」
 熱中するとすぐに食いっぱぐれるんだからと、ファナは悪戯っぽく笑った。
 まるで虚勢を張るように幼い身体をそびやかしていた少女は、今は家族を持つ落ち着きと余裕を持って笑うようになった。
「そうか、イシュタル様か」
 呟くと、エンキはまた顔をこすろうとして、握りしめたままのファナの布に気づいた。
 丁寧にかがられた布は何度も水を通したように柔らかかった。
 きっと彼に奇跡をもたらしたように、イシュタルはファナにもなにかの救いを与えたのだ。
 弟たちを纏わりつかせたまま遠ざかっていくファナの背にエンキは叫んだ。
「ファナ!イシュタル様は、お元気だったぞ?」
 さわさわと緑の波が揺れる。
 立ち止まったファナが答えるのが、風に乗って聞こえる。
「良かった!」

 青い草の匂いが、広がる空の下に満ちていた。




                            おわり

               

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