やさしいてのひら



「皇子!」
 居住区に足を踏み入れたとたんに上がった声に、カイルはここしばらく眉間に刻み込まれていたタテジワをのばした。
「なんとも、お元気なことですな」
 執務室から未練がましく張りついてきた書記官が頬をゆるめる。
 宮の奥に位置する居住区は火の季節だというのに満々とたたえられた蓮池の水面を渡る風が涼しい。
 今の今までその池に足を浸していたのだろう、裸足のまま立ち上がり手を振る姿。
「皇子、おかえりなさい!もうお仕事は終わったの?」
「ああ、ようやくな」
 言いながらちらりと書記官に視線を向けると、彼も諦めたように頭を下げた。
 どう食い下がったところで、皇帝不在の政務は今日中に片付くことはまずないのだ。
「では殿下、今日のところは」
 飛び跳ねるように近づいた『ご側室さま』はカイルの腕にしがみつくと、はずむ声で挨拶する。
「お疲れ様でした!」
 普段は王宮詰めの書記官は、面食らったように持っていたタブレットを落としかけ、慌てて抱えなおした。
 赤面しつつ、小声でぼそぼそとつぶやくと足早に退出しようとする。
 その背中に手を振ると、ユーリはなおいっそうカイルにすり寄った。
「まったく、執務室と居住区とは隔離しろというのに、徹底していないな」
 カイルはようやく解放されたことに安堵しつつ、つぶやいた。
 皇帝が病臥しているいま、急を要する政務はすべてこの宮に持ち込まれている。
 七日熱が蔓延しているため、普段以上に仕事も多い。放置すれば帝国の機能が停滞することは分かってはいるのだが。
 腕にしがみついたままのユーリを見下ろす。もう一つの心配事がそこにいる。
「おまえも外に出るんじゃないぞ」
「は〜い!」
 あまり気がなさそうにユーリは返事をすると、たちまち瞳を輝かせた。
「ね、それより皇子!ちょっと来て!」
 抱えた腕をぐいぐいと引っぱり、居間の方へ導く。
 何にでも興味を持ち首を突っ込みたがるこの『ご側室さま』は放っておけば疫病の蔓延する街にだって飛び出して行きかねない。
 手間はかかるが、そこに惹かれてもいるのだとカイルは諦めているのだが。
「はい、座って!」
 言われたとおりに腰を下ろす。今日は何を思いついたものやら。
 カイルの腰掛けた椅子の前に立って、ユーリは顔をのぞき込んだ。
 期待感にはち切れそうな表情だ。
「皇子、疲れてる?」
「いいや・・・」
 そんなことはない、と言いかけて本当に疲れていないことに気づく。
 先ほどまでは山になったタブレットにうんざりとしていたのに。
「でもお仕事たいへんでしょ?」
 そうか、なるほど、とカイルは納得する。
 執務室で百をこえる粘土板に目を通しながら、はやく部屋でくつろぎたいと考えていた原因はここにあるのだ。
 それを目にすれば、多少の疲れなど吹き飛ぶというわけか。
 たいした惚れ込みようだ。
 苦笑したカイルを誤解したのか、ユーリは顔を輝かせた。
「あたしっ!あたしにまかせてねっ?」
 言いながら素早く椅子をまわりこむとカイルの肩に手をかけた。
 肩の上を細い指がすべってゆく。
「おい、ユーリ?」
「黙って!」
 しばらくカイルの肩をなぞっていたユーリはうなずくと、そのポイントに力を込めた。
「・・・っ!」
 じんわりと心地よい痛みが広がる。
「ね、気持ちいい?」
 ユーリの声に、カイルはまぶたを閉じる。
「ああ」
 刺激が与えられるたびに、重かった肩がほぐれてゆく。
「上手いな」
「よくやってたからね」
 指先に集中するようにユーリは口をつぐむ。力一杯に固まった筋肉をほぐすことに気を取られるふりをする。
 よくやっていたのは、日本にいたころのはずだ。
 規則正しく力をこめながら、何を思い出しているのだろう。
 よく笑い走りまわり目を離せば飛び出していってしまいそうなユーリは、一見なんの悩みも無いように見える。
 けれど月明かりの下、寄り添い眠る頬の上に涙の痕を見つけたことも一度や二度ではない。静かに腕をまわせばすり寄ってくるのは、家族の誰かを思い出しているためだ。
 触れる指は頼りなく細い。この幼さで笑い続けることができるのはなぜだろう。
 ぱたぱたと握りしめた拳が背中をたたく。やがてことりと背中に頭が預けられる。
「ユーリ」
 返事はない。まわされ腕がカイルにしがみついた。
 すんなりとのびたしなやかな腕を指でなぞる。カイルの服を強く握りしめたてのひら。
「すぐ、だ」
 すぐに帰れる。次の水の季節になったなら。
 カイルはなぐさめの言葉を飲み込む。
 次の水の季節になればユーリは去ってしまう。そんな分かり切ったことに落胆してしまう自分がいる。
「肩たたきのほうびは何をもらっていた?」
 カイルは背中に張りついたままのユーリに腕をまわすとひざに抱き上げた。
 顎に指をかけてのぞき込むと、不思議に瞳は濡れてはいなかった。
 ユーリはばつが悪そうに視線を伏せる。
「パパに?」
「おまえの父親に」
「そんなのべつに・・・『ありがとう夕梨』って・・・それから・・・」
 カイルは腕に力をこめると、ユーリを抱きしめる。ぎゅっと、彼女の父親がしていただろうように。
「ありがとう、ユーリ」
 そして指の中にすっぽりと収まってしまう細い手首を持ち上げた。
 癒してくれた手のひらに口づけると、ユーリはくすぐったそうに笑った。
「パパはそんなことしないよぉ」
「そうか?」
 ふたたび彼女が笑ったことに安堵を覚えながら、カイルは親指で淡い色にほころぶ口唇をなぞった。
「では、こんなことは?」
 その言葉に答えるようにそっとユーリのまぶたが閉ざされる。
 笑顔を目にするだけで力づけられる。腕に抱けば安らげる。触れられるだけで癒される。
 いつかは手放さなければならないとしても。
 まだユーリはこの手のひらの持つ力に気づいていない。
 口づけを終えたあと、そっと髪をすく。指になじんだ黒髪だ。
「カイル皇子の手はやさしいね」
 ユーリが胸にもたれたままつぶやいた。
 やさしいのはおまえの手だろう。
 言葉にするかわりに、もう一度、まわした腕に力をこめた。


                   おわり



    

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