long kiss good night
「閣下!医師長が!!」
駆け寄ってきた副官が耳元で叫んで、俺はようやく振り向いた。
目の前では最新式の戦車が引きだされ、数人がかりで馬具をつけながらそれぞれ出立の準備を急いでいる。
馬具や武器がぶつかり、馬のいななきが幾重にも重なり合う。
腕組みをし、仁王立ちのまま、俺は全身から機嫌の悪さを発散させていた。
それでも、副官はひるむことなく大声で告げる。
「医師長が戦車に乗るのは無理だと言っています」
「まさか、ちんたら荷馬車に乗っていきたいって言うんじゃないだろうな」
不機嫌にこたえる。ここまで準備するのにどれだけの無駄な時間を費やしたか。
まず、侍医団を手放すことをしぶる王宮を説き伏せ、最新の戦車を用立てることを納得させた。
遠征には不向きな季節だと、難色を示す神官どもを恫喝した。
どいつもこいつも。
「そう願い出ているようですが」
俺は鼻先で笑ってやった。
「戦車隊のヤツでもなかなか乗れない新型に乗せてやろうってんだ」
「医師どもは戦車乗りではありませんから、投げだされることを怖れているんです」
「落ちないようにしっかり縛りつけていけばいい」
副官はなんども持ち出した妥協案をふたたび口にする。
「軍医を同行する訳にはいかなかったんですか、彼らなら行軍も慣れています」
「怪我ならな」
傷口を縫い、折れた骨をつなぎ合わせることなら、エジプト軍の軍医に勝る者はいないだろう。だが今回は怪我じゃない。
怪我ならあちらでもそれなりの処置はできたはずだ。
「あいつも八方に手を尽くしただろうさ」
俺の表情はますます厳しくなる。
オリエント一の医療技術を誇るエジプト王宮付き医師団の派遣を要請してきたのは、あちらだ。
講和条約でつかのまの小康状態にあるとはいえ、いまだ彼の国はエジプトの一番の敵国であるのに変わりはない。
正式な要請文とともに、俺のもとに届けられた書簡は、すでにあの男がなりふりなどかなぐり棄ててしまったことを表している。
『皇妃ユーリ・イシュタル、重篤』
本来なら国家機密事項に値する情報なのだ。
最重要の要人の不調を他国の宰相に知らせるなど。
だが、あいつは知っている。俺がそれを無視出来ないことを。
行動に移したのはすぐだった。
本来なら半月はかかる行程を10日で進むべく、戦車隊のみの遠征隊を組織し、外交上の優位を掴むためだと王を説き伏せた。
重臣の中には難色を示す者もいたが、次の王座に一番近いところにいる俺に表立って楯突けるものはいない。
それでも、時間がかかりすぎたと思っている。
特使がハットウサを発ってから半月。ここからあちらに行き着くまでに十日。
焦りがちりちりとうなじを焼く。
「宰相閣下」
気に障るほどゆったりとした動きで医師長が現れる。強欲で知られているが、彼の腕は確かだ。
医師長は取り巻きを引きつれたまま、自分が乗せられることになる戦車を見て眉を顰めた。
「王妃さまは近頃、足が痛んでよくお休みになれないのです」
痛ましいといった表情を浮かべると、医師長は頭を振った。
「陛下のおそばを離れることは心配で」
「よく眠れないのは、昼寝のしすぎじゃないのか?」
あの女の不調はすべて不摂生からきている。一日中、飲むか食べるかしかしていない怠惰な女。
関心事は流行の衣装や装飾品、あとは王宮のうわさ話。
同じ地位にありながら、ユーリとは天と地ほども違う。
それでも、前の王妃のように政治に口出ししないだけましだ。
俺はそこまで考えて思わず笑ったらしい。
医師長が憤慨する。
「閣下、不敬ですぞ。陛下はエジプトの神聖な王妃にあらせられます。他国の后などには比ぶべくもない方なのですぞ」
俺は剣呑な表情をしたらしい。医師長は急に黙り込んだ。
「すぐに出立する」
それだけ言うと背を向ける。
痛風持ちのエジプト王妃なぞ、くそ食らえだ。
確かに今の王は王妃の血筋のおかげでその王座につけたのだろうが、あの程度の女ならいくらでもいる。
本人が何の努力もなしに受け継いだ血筋の良さと、高慢さ。己の地位に安住して他のものを見ようともしない驕慢。
ユーリはそんな女たちとは全く違う。
ユーリは他人の痛みを感じ取ることができる。民の心を引きよせることができる。
上に立つ者としての資質を持った女だ。
珍しい肌の色と黒い髪、黒い瞳。ずば抜けて美しいとは思えないのに、目が離せない。
無鉄砲と紙一重の行動力。相手の身分に物怖じしない大胆さ。
いつだって、手加減無しにぶつかってきた。手におえないじゃじゃ馬。
そのユーリが病の床にある。
あの男はなすすべもないのだろう。
「待ってろよ、俺が助けてやる」
雲一つ無い空にぎらぎらと輝く太陽を睨み付ける。
すぐにでもあの及び腰の医師どもを引きずっていって、治療させる。
だから、待っていろ。
以前、同じように医師を連れて駆けつけた俺の前に、ユーリは血の気を失った顔で横たわっていた。
青ざめた頬と、白くなった唇を目にしたとたんに、俺の中でなにかが燃え上がった。
どんなことをしても助けてやる。
死なせなどしない。
「閣下、準備が整いました!」
ワセトが息せき切ってくる。
「全員、乗せろ!医師どももだ」
地方の砦で馬と食料を調達しながら不眠不休で駆け抜ける。
ハットウサまで、十日、いやそれよりも早く。
伝令が走ると騎兵が戦車に一斉に取りつく。
もうすぐだ、ユーリ。
もう一度戦車隊を見渡そうと振り返った俺の視線が白い影を捉える。
まるで陽炎のような足取りで、ふらふらと現れたのは、日よけさえも差しかけていないネフェルトだった。
軍旗のそばまで近づいたネフェルトは俺の姿に気づいた。
俺は不吉な予感を振り払うように顔を背けた。
「兄さま」
足取りと同じく、揺れる声でネフェルトが呼びかけた。
「すぐ出発だ、時間がない」
自分の戦車に向かおうとする背に、半ば裏返った声が投げつけられる。
「聞いてよ、兄さま!」
高い声はよく通る。おれは仕方なしに、立ち止まる。
「おまえがよろしくと言っていたと伝えてやるよ」
「・・・聞いて、書簡が届いたの」
ネフェルトの声は否応なしに耳に入ってくる。その声が涙を含んでいることを意識から締め出そうとする。
待ってろ、ユーリ。
「ユーリは・・・」
すぐに助けてやる。
ネフェルトが嗚咽する。
すすり泣きの声に、まぶたを閉じる。
どこまで、俺を拒もうとする女なんだ?
そんなにムルシリのやつがいいのか?
でも、今度だけはあいつも置いてきぼりだな。
俺はため息をつく。
「ワセト、兵に引き上げるように伝えろ」
言うと、座り込んだネフェルトに近寄る。
拳に握りしめたままのタブレットを取り上げる。
記された日付は、最初の書簡よりほんの数日遅れだった。
遅かったのか。
俺のやろうとしたことは全部無駄だったってわけか。
裏をかくなんて最後の最後まで、なんて女だ。
ネフェルトが俺の膝に抱きついた。その背中を撫でながら、俺はもう一度空を見上げる。
雲一つない空だ。
いつもと同じ、エジプトの空。
俺は歯を食いしばり、焼けつく陽光に身を晒す。
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