赤月夜
「ひきかえした、だと?」
伝えられた言葉に、眉を顰める。
「赤い河までは来たようですが」
泉の守護に派遣された皇帝軍から伝令が発ったのは昨日のこと。いまごろは知らせをうけたユーリは慌てふためきこの都に向かっているはずだったのだが。
「街道沿いに私兵を配したのが無駄になりましたね」
「まあ、そう焦ることもない」
上手くすれば少数の供回りだけで行動する小娘を捕らえることもできるかも知れないとは考えた。
立ち上がり、見上げた窓には奇妙に赤い色をした上弦の月が覗く。
あれはきたる未来にこの地を染める血の色をうつしているのだと、ナキアは思う。
「泉を埋め立てるのを急がせろ。あの娘を逃さぬようにすればよいのだ」
もし間に合えばそれはそれで小娘を取り返す機会もあっただろう。カイルの代理の皇女の魔力など抑えてみせる自信はあった。帰還の儀式のために水に入った時を狙って、こちらの手に取り戻す。
間に合わなくとも、ユーリを還す手段は奪える。
時間をかけて選んだ最良の生け贄だ。いつまでも自由に遊ばせておくことはない。
そこまで考えてから、ふたたび眉を寄せる。
「しかし、ひきかえしただと?」
予想外の行動だった。泉が無くなれば、もとの世界に戻れぬことなど分かっているだろうに。
皇帝の苦境の報は、家族を捨てさせるほどに重大だったのか。
「よほど陛下に未練を残していたと思われます」
ウルヒの言葉に、ナキアは嗤う。
己の命を危険にさらしてまでそばにいたい未練か。
いかにも未熟なあの娘らしい。感情を隠すこともせず、泣いたり叫んだりする。
あの娘の年頃には、自分はもっと落ち着いていたはず。子どもだった時間は、輿入れと共に捨て去ったから。
そういえば幼い頃には、赤い月に脅えたこともあった。
目を細めて不吉な月を見上げる。流れるのは望む者の血であれと願いながら。
「あやつも軍を半分に裂くという愚かな行動に出たな」
たかだか一人の小娘のために、国の勝敗まで揺るがす決定を下した。
あのいつ見ても端然とした顔をしてつかみ所の無かった男が、小娘一人に我を失い奔走する姿を何度も見てはいたが。最強の敵を目前にしてさえ、小娘の些末を優先するとは。
「カイルの窮地を知って戻ったか。想い、想われ、幸せなことよな」
あの男がまだ至高の地位に昇らぬころ、王宮のそこかしこで、寄り添う二人の姿は何度か目にしたことはあった。側室なら控えて後を歩くものなのに、あの男はいつもしっかりと小娘を脇に抱き寄せていた。
なによりも警戒の意味もあっただろう。だが、それだけではない執着を感じ取った。
その執着をなんと呼ぶのか。
「愚かなことだ」
苦々しさと共に吐き捨てる。
身分高く生まれた者が口にするのを憚る言葉。たとえ、秘かにその思いを抱こうとも、決して口には出来ない言葉。
あるいは過去に、血を吐く思いで葬り去った感情。
「絵空事だ」
愛だの恋だのは、権力を握る者にはふさわしくない。
なのに、あの男は自身が切望する皇帝冠を手に入れただけでなく、そのつまらない感情まで手にしているというのか。
つくづく目障りな男だ。目障りすぎて消し去りたくなる。
「元老院議員の中には、泉を壊したことに批判的な者もおります」
ウルヒの言葉に我にかえる。
「このわたくしを非難するのか?」
至高の地位にあるのは自分も同じ。これを手に入れるためにどれほどの犠牲を払ったのか。生まれつき未来を約束されていたあの男とは重みが違う。
誰にも口出しはさせぬ。
きりきりと口元を噛む。
「いいえ、おそらくは守護の泉を失ったことに怖じ気づく者でしょう」
誰も彼もが愚かだ。
あんな泉に何の意味がある? 縋る神になんの力がある?
信じられるのは己の力だけだ。
道を切り開くのは自分の力しかない。
神に捧げると言いながらも、血に染まった愛しい娘をかき抱き悲嘆にくれるあの男の姿を見たい気持ちが幾分勝ってさえいるのだ。
愛しい娘か。
口元がゆがむ。
「文句などすぐにひっこめたくなるだろうよ」
「と、申しますと?」
「皇帝の後宮に娘を入れたくないものなどいないであろう?」
権力の匂いほど人を酔わせるものはない。このエサに、不満顔の奴らは喜んで食いつくだろう。
上手くして、娘が皇帝の寵を得ることが出来たら? 生んだ子が皇子であれば? その皇子が次代の皇位を継ぐことになれば?
人々の欲望は際限なく肥大してゆく。
「陛下のおんために、妃候補を集めることにしよう」
あまたの縁談を無視し続けた皇帝は今や不在で、ここで権力を握るのは皇太后である自分一人。権力におもねる者達はみな卑屈な顔ですり寄ってくる。
せいぜい盛大に凱旋祝いの宴を開こう。権勢を夢見る姫君達をずらり並べて。
綺羅を飾る美姫たちにあの男が心を動かすだろうか。
考える以上にあの二人の絆は強い。
けれど、厳格な序列のある王宮内で、身分高き姫君達を無視することは出来ない。
いつものように小娘を引きよせている訳にはゆかないだろう。必ずや隙が生じるはずだ。
その隙こそが狙いだ。
「ユーリに、ひきかえしたことを後悔させねば、な」
感情の赴くままに生きることがどれだけ愚かしいことなのか、思い知るがいい。
「あの男にも、己が皇帝であるということを悔やませねば」
たった一人を想うことなど、許されるはずがないのだ。犠牲なしの権力などあり得ない。
互いのために危険を顧みないなど、どれほどの愚行か知るがいい。権力とは立ち回ることだ。
「そうであろう?」
見下ろす赤い月がにたりと嗤う。どんな贄を受けようかと待つように。
「すぐに、皇太后陛下の勅書を作らせましょう」
ウルヒが頭を下げる。
彼は同じ権力の夢を見る忠実なしもべ。憎しみと際限ない渇望とで繋がれた絆。
「おまえは・・・」
「はい?」
「いや、いい。勅書を急げ」
すいと視線をそらせて命じる。
おまえが同じ立場なら、引き返したか?
それを口にするのも愚かなことだ。
窓の外には血を溜めたような赤い月。
流されるのは誰の血だろう。
おわり
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