冷血 −Cold blood−



 夕刻が近づくと、家の女たちが落ち着かなくなる。最近やってきたばかりの若い娘が、
侍女たちの不手際に声を荒げる。
 古株の女はなかばあきらめた顔で、それでも髪をくしけずり始める。
 夕餉の差配に母は重い腰を上げる。家の中の細々としたことはみな母の指示が仰がれる。
 いつの間にか、女たちの間でできあがった順列は、この家の主の思惑とは無関係に、最古参の母をその位置におしやった。
「さあ、旦那さまをお迎えするのよ」
 母は抑揚のない声でそう言うと、食器を選び食材を吟味する。
 今日は暑かったから、軽い味のワインで。魚の出物があるから、それをメインに。
 心遣いすら惰性になったように命じると、大きな盆に並べたそれを眺める。
「今日はどちらで召し上がるのかしら」
 誰に尋ねるともなく、そう呟く。
 それを決めるのは母ではない。気まぐれに父が目を遣った相手がそばに侍るのだ。
「あなたはお父さまに呼んでいただけるかもしれないわね」
 繰り返される日常に倦んだ視線がオレを見上げる。
 時々、父は帰宅に新しい女を伴った。心の奥の冷ややかさを押し隠して、女たちはその娘に笑いかける。
 ここでは、誰もが同じ。同じ男に愛されているのよ。
 父は、時には驕慢に顎をそらし、時には不安そうに俯いた娘を皆に紹介する。
 仲良くしてやってくれ。
 誰とも同じ。誰よりもぬきんでることもなく。
 出迎えるお仲間が増えるだけのこと。



 幼い頃は、父のそばにいることが母の喜びだった。
 父譲りのオレの髪を撫でながら、母の顔はいくど誇らしげに輝いたことだろう。
「あなたはお父さまの、たった一人の息子なのよ」
 その息子を与えたのが自分であることに母は自尊心を持っていた。
 流行の衣装に身を包み、最上級の技で作られた宝石を飾って微笑む母は美しかった。
「お父さまはあなたのことをいつも気にしていらっしゃるわ」
 そして、その子を産んだ女のことも、絶えず気にかけていると思いたかったのだろう。
 おそらく寝物語にでも聞かされたのだろう言葉をこっそりとオレに告げる。
「これは秘密だけど、お父さまはあなたに皇女殿下を娶せるおつもりですって」
 噂にしか聞いたことのなかった強大な外つ国の皇女の名前を持ち出す。
「ねえ、あの方はやがては王になられるのよ。その時あなたは王太子ね」
 そして、母は自分の頭上に王妃の冠を夢見ていた。
 屋敷の中に何人の女が増えようとも、オレがいる限り母の地位は盤石に思えた。
 唯一の跡取り息子の生母という点ではいまだにそれを脅かす者はいない。
 けれど、夜がれが続くうちに母の顔は曇り始めた。
 女たちの誰かの懐妊が伝えられると、夜の回廊をさまよった。
 生まれた子供が娘であっても、母の気持ちは静まらなかった。やがては男の子が生まれてくるのかも知れない。その時こそ、見捨てられるのかも知れない。
 母の不安がふくらむうちにオレはやがて初陣を迎え、そつなく跡取りのための義務をこなした。
 世間にオレが父の息子と認められても、公式の席に母が伴われることはなかった。
 母の立場は、数多くいる父の妻たちの一人で、偶然生んだ子が男だっただけだ。
「どうして」
 どうして、こんなにも不安になるのか。どうして、泰然と構えていられないのか。
 母の自問自答は続いた。
 目立って冷たい仕打ちなどない。望んだものはすべて与えられる。
 両手に余るほどの女たちすべてに、父の愛情は注がれている。
 まんべんなく、かたよりもなく。
「お父さまは」
 ある日、母は床に座り込んだままつぶやいた。膝の上にはこの家にやって来る時に持たされた白い衣装が広がっている。
「どなたのことも同じぐらい愛していて、同じぐらいに愛していないのだわ」
 袖を通すことの無かった花嫁衣装が小刻みに震えた。もう、それが似合う年齢をとうに過ぎていた。
 女たちの誰かが父の冷たさを責めても、父から返るのは豪放な笑い声だけだった。
 誰が一番だなんて、選べないな。
 オレはみんなに同じくらい惚れてる。
「あんなの、うそよ」
 手の中で白い布と母の心が細く裂けた。



 玄関で出迎えた女たちの誰に笑いかけることもなく、父は通り過ぎた。
 贅をこらして競う新しい妻たちは不安げに顔を見合わせる。
「いったい、どうされたのかしら」
「今日は、王宮でなにかあったのかしら」
 一瞬通り過ぎた父の横顔に、ただならぬものを感じて、オレは後を追う。
 父が心を乱すさまを一度も見たことがなかったからだ。
 足早に追いつく目の前で扉が閉ざされる。扉の向こうで咆哮が聞こえたような気がした。



「お父さまは誰のことも愛してはいらっしゃらないのよ」
 父の様子を伝えたオレに、母は儚く微笑んだ。まるでオレの話など聞かなかったように、普段どおりにいつもの繰り言を始める。
「ここにいる、誰のこともね」
 誰のことも特別でないのなら、選ばれなくとも耐えられる。
 この広い屋敷の中で母が身につけた自分を守る鎧だった。
 膝の上の刺繍を取り上げると、針をもつ。母の指が繊細な花模様をつづり始める。
 花嫁衣装はあきらめたから、こんどは経帷子でも作りましょうかと、冗談めかして笑う。
 それとも、綺麗なこれをあなたの花嫁に贈ろうかしら。
「父上は、泣いておられるようです」
 遮って言ったオレの言葉に母の顔はますます微笑んだ。
「そうなの…………では亡くなられたのね」
「亡くなったとは?」
 唐突な言葉に、とまどう。
「お父さまの心を占めておられた方よ」
「父上の心を?」
 あの父が誰かを愛することがあるのだろうかと、オレは思う。女に対して心を許さない人だった。
 誰をも同じくらいに愛して、誰をも同じくらいに愛さない。
 ただ、太陽が空を巡るように、父は足を止めずに女達の間を通り過ぎるだけ。
「そんな女がいるとは思えない」
 オレの言葉に母は穏やかに針を運ぶ。
 きらめいた針が指先にあたり、白い布に小さな染みを作った。それを気にかける様子もなく、母は歌うように言った。
「いたのよ、他の誰をも愛せなくなるほど、お父さまが愛した方。でも、もういらっしゃらないの」
 母の血の気のない顔に、初めて喜色が広がった。
「もう、いなくなったのよ、いないの」
 少女のように瞳を輝かせて、母はなんども繰り返す。
 まるで婚礼の衣装を縫う娘のように頬を上気させて。

 指先からあふれ出る赤が白い布の上にいくつもの花を咲かせた。


 

     

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