泣かないで




 その人が傷ついた兵士達が横たえられた救護所を訪れたのは夕刻。
「我が軍の被害は僅少です」
 従う小隊長の一人が、誇らしげに報告する。
「これも、みなイシュタルさまの優れた軍略のおかげでございます」
 屈強な男達に囲まれて、小柄な女神は眉を寄せた。
「でも、こんなに怪我人がいる」
 片膝を突き、一人の兵士をのぞき込む。
 骨が折れたのだろう、投げだされた足は布でぐるぐる巻きになっている。
 額に浮かぶ汗をそっと拭われて、兵士は熱に浮かされた瞼を持ち上げた。
「イシュタルさまだ」
 小隊長の鋭い声に、目を見開くと慌てて不自由な身体を起こそうとする。それをやんわりと押しとどめたのは、思ったよりも小さな手。
「いいえ、無理はしないで。熱が出ているのよ?」
 ささやくようにイシュタルは言うと、落ちた掛布を引き上げた。
「陛下のために戦ってくれてありがとう。あなたのおかげであたしたちは勝てた」
「もったいないことです」
 かすれた声が絞り出される。その腕を押さえると、にっこりと笑う。
「怪我をはやく治してね、国に帰るころには奥さんや子どもさんに元気な姿を見せなきゃ」
 足手まといの負傷兵を置いていくのは戦の常識。けれど、女神はそれを拒んだ。
「みんなで帰らなきゃ、勝った意味がない」
 真剣な顔に、軍議に並んだ者たちはみな口をつぐんだ。
「ほとんどが歩ける者です。荷車が必要なのは数人で」
 頷きながら、イシュタルの目が、暗がりに置かれた大きな包みに止まる。
「あれは?」
 小隊長たちの間で視線が交わされる。
「敵兵です」
 敵兵にも治療を与えよというのが女神の指令。
「怪我がひどくて助かりませんでした」
「ここに置いていけば、やがては家族の誰かが引き取りに来るでしょう」
「イシュタルさまがお気に留められるようなことでは」
「・・・め・・・んね」
「は?」
 それは小さな謝罪に聞こえた。
「イシュタルさま?」
 振り向いた顔は、毅然としている。
「他の人の怪我の具合を教えて?」
 さっとマントを払うと、医師長に向き直る。





 小高い丘にぽつんと腰を下ろした女神の後ろ姿を見つけて、小隊長の一人が警護のために歩み寄ろうとする。
 立ちふさがったのは忠実な女官。
「ここから先は・・・」
 ゆっくりと首を振る。
「お一人にしてさしあげて」
「しかし、少し無防備では」
 言いながら、丘のまわりの闇に同じように身を潜めた女官の姿を見つける。
 警備に抜かりはないのだろうと、苦笑しつつ、丘の上の姿に目を遣る。
 細い肩が月を見上げて震えた。
「泣いて・・・おられる?」
 女官は「しっ」と指を立てた。
「しかし、死んだのは敵の兵だ」
「そうね」
 そっけなく返しながらも、女官の瞳は優しく女神を見上げる。
「女神が敵兵のために泣くのか?」
「女神さまだからこそ、敵兵のためにも涙をお流しになるのよ」
 強い意志で口元をひき結ぶ。
「あの方を、悲しませたくはないわ」
 言われて、もう一度震えている姿を見上げた。
 暁のなかのイシュタルは颯爽と軍旗を翻す。
 凛とした声が通り、輝く瞳に魅せられる。
 必ずや勝利に導いてくれると、その力を疑ったことなど無いのだけれど。
 涙を見せまいと、一人泣く姿は少女のようで。
「悲しませたくはない、か」
 持ち上げた剣を目の高さに掲げる。
 言葉にしない忠誠の誓い。
『あなたのために』


 明日には笑顔が見られるのだろうか。


                                  おわり

    

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