黄泉比良坂

              by 希鈴さん

―――闇の中にいた。
わたしはひとり、洞穴を歩いていた。
骨まで凍えるような寒さの中、私は進まねばならない。
なぜか裸足だった。ごつごつとした岩の上で、一歩進むたびに切り傷ができてゆく。
 
……行かなくては。
何のために?
愛しい者に、再び会うために。
そうだ。わたしは、妻を取り戻すために来たのだ。
愛しいわが妻。帝国もわたしも、皇妃なくして進むことなどできない。
たとえ冥界の神、ネルガルが許さなかったとしても、わたしはおまえを連れて帰ろう。

どこまでも続く漆黒の闇。おまえはこんなところにいるのか。
誰よりも明るかったおまえ。
誰よりも陽の光が似合ったおまえに、こんな場所はふさわしくない。

「わたくしのような者でも、皇妃がつとまりますなら……」
おまえを正妃にと求めた日、わたしの目を真っ直ぐに見て答えたな。
「あなたの行くところなら、どこへでもお伴します」
結婚式の夜、そう言ったことを忘れてはいまい。
「この幸せが、ずっと続きますように……」
息子を抱いたわたしを見て、そうつぶやいたのを聞き逃したと思ったか?

おまえが、わたしから離れてどこかへ行くことなど許さない。
ずっとわたしのそばにいろ。今度は、それだけを誓え。

……静かだ。
自分の足音さえ、暗闇に吸い込まれていくような気がする。
恐怖はない。もうすぐ、おまえに会えるのだから。
おまえの笑顔を見たい。おまえの声を聞きたい。
このどうしようもない孤独から、わたしを救ってくれるのはおまえだけなのだ。


ふと気が付くと、ぼんやりと大きな扉が見えた。
これが冥界の入り口に違いない。
わたしは扉を叩き、妻の名を呼んだ。
「ヒンティ、わたしだ! おまえを迎えにきた夫だ」
しばらくすると、中からわが妻が姿を見せた。
「あなた……」
「ヒンティ! 会いたかった。どうしてわたしをおいて行った!?」
わたしはヒンティを抱きしめて言った。
「わたしの理想の政治を行うためには、おまえが必要なんだ。わたしと一緒に、帝国に戻ろう」
「ごめんなさい……」
ヒンティは涙をうかべてうつむいた。
「わたくしは、もう冥界の食物を口にしてしまったのです。もう少し、あなたが早く着いてくだされば……」
「そんなことはかまわない。誰がなんと言おうと、わたしはおまえを連れて帰るつもりだ」
手に持った剣を見せると、ヒンティは涙をふいて言った。
「でも、冥界の神、ネルガルには誰も逆らえません。
でもあなたが迎えにきてくださったのだから、ネルガルも許してくださるかもしれません。
わたくしが話をしてまいりますから、ここでお待ちになって」
「許してくれるのか……?」
「わかりません……でも、行かなくては……どうか、行かせてください」
必死に頼む姿に、わたしは折れた。
「わかった。待とう……」
ヒンティは、扉を閉める前に低い声で言った。
「ひとつ、お願いがありますの。わたくしがもどるまで、決して扉の中を見ないでほしいのです」
「あ、ああ……わかった」
ヒンティは扉の中に消え、あたりはふたたび闇となった。


……遅い……。
あれから、どれだけの時間がたったのか。
扉の前で、ただじっと待つことしかできないのか。ヒッタイト帝国の皇帝ともあろうものが!
どれだけの時間がたったのだろう。陽が差さないここでは、自分の感覚しか頼れるものはない。
もう、半日はたったと思うのだが……。
扉を見つめる。
何の飾りもない、重くて頑丈な扉は、無言でわたしを威圧する。
―――帰れ。ここは、命ある者の来るところではない―――
「くそっ!」
拳で扉をたたく。バァン、と音がしただけで、扉はまた沈黙した。
「決して扉の中を見ないで」
……あれはどういう意味だったのだろう。
「ヒンティ!」
扉の向こうは、しんとしている。
「ええい、もう待てぬ!」
取っ手に触れただけなのに、ギイと音がして扉が開いた。
中は薄暗かったが、少し先に女の後ろ姿が見えた。
「ヒンティ……?」
「……あなた……」
クルリと振り向いた女は、ヒンティではなかった。
「約束を破りましたわね!」
「お、おまえは……ナキア!」
その顔は首や腕に何匹も蛇をまきつけた、バビロニア出身の側室だった!
「決して見ないでと言ったのに、許せませんわ!」
「う、うわあぁ!」
わたしは、もと来た道を走り出した。
「よくもわたくしの恥ずかしい姿を……!」
ナキアの声が追ってくる。蛇の息と蛇の舌が背中に当たるたび、ぞっとして足がもつれる。
わたしは、必死になって走らねばなかなかった。あれは魔性だ。剣で太刀打ちできるものではない!

地面が上り坂になり始めたとき、入り口の明かりが見えた。
「逃すものか〜!」
ナキアの声は怨念に満ちている。
わたしは入り口の近くに生えているナツメの実をもぎとり、ナキアにむかって投げた。
「うっ」
ナキアは、ナツメをぶつけられてひるんだ。ナツメには邪を払う力があるのだ。
「わが夫よ、わたくしは汝が帝国で権力を握ってみせよう!」
わたしは応えた。
「わが側室よ、わたしの帝国はわたしの息子達が立派に治めるだろう」
「わが夫よ、わたくしの血を汝が皇統に残してやろう!」
わたしはふたたび応えた。
「わが側室よ、わが皇統は正しく帝国を導く皇子が継ぐであろう」
「わが夫よ、わたくしは汝が帝国のタワナアンナとなってみせる!」
わたしはみたび応えた。
「わが側室よ、タワナアンナは自らその任に就くのではない! タワナアンナにふさわしい者が、神と皇帝と民衆によって選ばれるのだ!」 


…………。

「あなた。あなた、どうなさないましたの?」
「う……ん?」
目を開けると、ヒンティが心配そうにわたしの顔を覗き込んでいた。
「うなされておいでのようでしたわ」
「あ……。いや……」
起き上がると、こめかみに鈍い痛みがあった。
「お水を持ってまいりましょうか?」
ヒンティは寝台から下りて高杯に水を注ぎ、渡してくれた。
「ああ」
一気に飲み干す。
……夢か……。
夢だったのだ。わが妻が冥界に行ってしまうことも。わたしが迎えに行かねばなかなかったことも。
また、後宮にいれたばかりのあの娘が、わたしに呪いの言葉をはいたことも……。
「ヒンティ」
「はい?」
水差しを置き、再び寝台に入ろうとしたヒンティを抱きしめた。
「わたしをおいて、どこかへ行ったりするなよ」
「……もちろんですわ。陛下のおそば以外に、行くところなどありませんもの」
「どこへも行かないと誓え」
「はい、わたくしはどこへも行きませんわ」
幼子に安心させるようにヒンティが言う。
上掛けをわたしの肩に引き上げながら、ヒンティは微笑んだ。
「夜明けまでまだ間がありますわ。さ、お休みになって……」



そうだ、夢だ。あれはただの夢だ。夢だったのだ……―――


                 おわり

    

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