麗人



 そのひとを初めて目にした時。
 ────意外に平凡な女
 そう思った。



「殿下、遠路はるばるようこそ」
 目前で止まった見事な黒馬から、すらりと下り立った姿。
 彼女は今の今までなびかせていたマントをばさりと払うと、私よりも低い位置から視線を上げた。
「ユーリ・イシュタル皇后陛下です」
 さきに異母兄に随行していた供の者が耳打ちする。
 私は、目の前の小さな姿に感じた落胆を巧みに押し隠した。
「お出迎え、ありがとうございます」
 膝をついて頭を下げる。
 小柄な人だとは聞いていた。噂通りの黒い髪、黒い瞳だった。
 けれど、取り立てられたばかりの見習い武官のような簡素な装いに、失望は禁じ得ない。



 
婚儀に父の名代として出席した異母兄は、彼女のことを美しいと形容した。
 たとえれば、朝靄の中かぐわしく咲く睡蓮の花のようなひとだと。
 華奢で可憐で、皇帝の寵を一身に受けておられると。
 たしかに尋常な寵愛ではないなと、父は笑った。



 私の国は一度滅ぼされたことがある。
 主を失った王城の中、行くあてもなく逃げまどったあの時の混乱はまだ覚えている。
 なだれ込む敵兵。女たちの悲鳴。
 女物の衣装に身を包み、息をひそめて落ち延びた。
 王太子さまは、怒りを買ってしまわれたのだと、侍女が涙ながらに呟いた。
 触れてはいけない女神をさらったために。

 敵国で女神と讃えられる人を、父は奪った。
 その女が後宮にやってきた時の小さな嵐を覚えている。
 母は黙って唇を噛み、見えないはずの壁の向こうを睨んだ。
 気をきかせた侍女たちが回廊をうかがい、通り過ぎたその娘のことを噂した。
 随分と小さい。
 色気もなにもない。
 まだまだ子どもだ。
 どうせ、王太子殿下の気まぐれですわ。
 でも、あの娘はかの国では女神だと敬われているそうです。
 だから、殿下はあの娘をおそばに置こうとされるのか。
 女たちの噂の真偽など確かめようもない。
 たまの母の機嫌うかがいに参内しても、噂の女神を目にすることなど無かった。
 耳にするのは、新しい側室が後宮を自由に出入りしていること。
 型破りな行動を、父が黙認していること。
 珍しいことだ。
 それだけ御寵が深いと言うことか。
 噂など、無責任なものだ。
 王城を放棄する際に父が同行した側室が、彼女一人だということを知るまではそう考えていた。
 祖父である王と父とを執拗に追う敵将が、彼女を取り戻したがっていることを知ったのはさらに後だ。
 あの敵国の皇子の寵姫だったそうだ。
 それを無理矢理に奪ったのは殿下。
 だから、この国は滅ぼされる。
 女一人のために?




「ハットウサまで、あと一時。ご一緒させていただきます」
 そう言うと、彼女はひらりと馬上に姿を踊らせた。
 ツヤツヤと輝く毛並みを持った騎馬は、大の男でも乗りこなすのが難しそうな逞しい軍馬だった。
 私は愛想笑いのまま頷き、手綱を引いた。
 そういえば、イシュタルは戦いの女神だった。
 細いがしなやかな腕がやすやすと馬首を返すさまを眺めながら、私は思う。
 男でも怖じ気づく戦場を、彼女は縦横無尽に駆けめぐるのだと聞く。
 先のエジプト戦に参加した父が、思い出したように口にした。
 女にしておくのは惜しい見事な差配だった。
 エジプト戦での一番の軍功は彼女にあるだろう。



 小柄で、華奢で、美しくて、優れた軍人。
 いったい、どんな方なんです?
 会えば分かる、父はそう言った。
 一度、会っておけ。
 しかし、女神に魅了される危険があるな、とも。




「国王陛下はお元気ですか?」
 存外に気さくに、彼女は話しかける。
「はい、両陛下にはますますのご健勝をと」
 父は、うっすらと笑って言った。
 どうせ、あの二人ならよろしくやっているだろうがな。
「堅苦しいね」
 くくっと小さく喉が鳴った。
 まるで、小鳥が首をかしげるような仕草だった。
「ナディアさまは?」
「母も、元気でございます」
 イシュタルさまによろしくお伝えして、と母は言った。
 父が復位してから、いやそれ以前に、国を失ってから、随分と穏やかな表情をするようになった母だった。
「そう、良かった」
 彼女は屈託のない笑顔を浮かべた。
 父の元に囚われの身になったことなど無かったように。
 よほど心の広い女なのか、それともすぐに忘れる愚かな女なのか。
「殿下は・・・ナディアさまに似ていらっしゃる」
 遠慮のない視線が私に注がれる。
 私はその中に、なぜか懐かしむ気配を感じ取る。
「母を覚えておいでですか」
「もちろん」
 私は逃亡中に身を寄せていた地方貴族の家で母がぽつりぽつりと語ったことを思い出す。
「母のしたことも?」
 母は、後宮の中で彼女を殺めようとした。
 父の寵を得た女が許せなかったのだ。
「ナディアさまは、黒太子・・・陛下を愛していらっしゃったから」
 語る声に柔らかさを感じて、私は思わず振り向く。
 穏やかに微笑む黒い瞳がそこにある。
 こんな風に、まっすぐに人の目を見るのは不躾だと、私の心はさざ波をたてる。
「やっぱり」
 唐突に彼女が声を上げて笑った。
「ジュダ殿下にも少し似ている・・・従兄弟だからだね。カルケミシュは通らなかったのね、近道なのに」
「多少遠回りでもその方がよいかと思われまして」
 カルケミシュには、この国の反逆者である前皇太后が幽閉されている。
 皇太后は母の姉にあたる。だから、避けた。
 皇位転覆を謀った者と通じていると疑われる危険がある。
 たとえ、母がいくら姉君の身を案じようとも、同盟国の使節として嫌疑のかかりやすい振る舞いは避けるべきだ。
「帰りはぜひ、カルケミシュでジュダ殿下にお会いしてね・・・それから、ナキア皇太后にも」
 なのに、さらりと彼女は言った。
「きっと、ナディアさまはお姉さまのことをご心配だと思うの。様子を伝えて差し上げて」
「そのようなことは、できません」
 私は試されているのかと疑いつつ、慎重に応える。
 この国と私の国との関係は同盟という建前だが、その実、支配する国と従属する国にしか過ぎない。
 意向に背けば、いつでもねじ伏せられる。
「同盟国ですから」
「同盟国だからよ?」
 謎かけのように言うと、突然に彼女の瞳が輝いた。
「では、帰りはカルケミシュまでお送りしましょう」
 さっと伸ばされた手が、私の腕に触れた。細い指先は想像したよりもずっと柔らかくて暖かかった。
「その時、たまたまナキア皇太后にお会いしたくなるかも知れない。殿下もご同席いただければ」
「それは・・・」
 口ごもった私に、もう一度笑顔が向けられた。
「たまたま、だよ?」
 一瞬、まじまじと見返してしまったその顔が、意外に整っていることに気づく。
 滑らかな頬や、透き通る瞳。
 風になぶられた頬がほんのりと赤みを帯びている。
 装えば、確かに噂通りに美しいのかも知れない。
 私は胸の内に波立つものが苛立ちのそれとは違うことに気づく。
 父が、ときどき懐かしむ女だ。
 そして、出生が定かでないにもかかわらず、一度は他国の後宮に納められていた女にもかかわらず、オリエント一の権力を握るこの国の皇帝が正妃にと望んだ女だ。
 そうだ、きっと彼女は美しい。


「あ」
 小さな声があがる。
 つられて見たその先に、金色の旗を翻した隊列が見える。
「カイル!」
 野原一杯の花が一度に咲いたようだった。
 幼いとさえ思えるその横顔を彩ったあでやかな表情。
 見とれたのは一瞬だった。
「殿下、皇帝陛下のお迎えです」
 だから、皇妃の表情で振り向いた彼女に、ほんの少しだけ失望したのだろうか。


 おかしなことだ。
 私はもう少し、話しを続けていたいと思ったのだ。
 女神と称えられる彼女を、もっと知りたいと感じたのだ。


 会えば分かる。
 父は笑った。
 しかし、女神に魅了される危険はあるな。



 まだ、とらわれる程には彼女を知らない。
 けれど、ここにいる間に、どれぐらい惹かれるのだろう。
 膨れる期待とほんの少しの苦い想いを抱えて、私は馬の上で背を伸ばした。



                          おわり
   

     

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送