君知るや


 一度、お暇な時にいらしてください。街を案内しましょう。
 街の外には古くからの市があって、いろいろな者が集まってそれは賑やかで。
 きっとあなたのお気に召すでしょう。



「母上?」
 明るい瞳が、困惑に翳った。

 不意に泣き出したひと を、どう扱っていいのかはかりかねて。
 随分と前に自分よりも小さくなってしまった肩が小刻みに揺れるのを眺めながら。
 ふと視線を上げれば、これもまた同じように弱り切った表情の兄の姿。
「・・・なにも地の果てに行こうって言うんじゃありませんから」
 細い肩に躊躇して、ようやくそうなだめる。
「すぐに逢えますよ。馬を飛ばせば三日の距離です。用があれば駆けつけて参ります」
 そのひと の頭が、同意を示すように上下する。
「ねえ、だから泣かないで」
 淋しくないと言えば嘘になる。けれど、いずれはこうしなければならないことは分かっていた。
 それが、務めだと思っている。
 ただ、贅沢を享受するためだけにこの血を受け継いで生まれたわけではない。
「私は、父上や兄上のお役に立ちたいのですよ」
 赴くのは交易の要ともなる街。
 接するのは友好国とはいえ、常に隊商が行き交い、外国の勢力が流れ込むのに目を光らせる必要のある街。
 他の誰よりも、自分こそがそこにふさわしいのだと信じている。
 けれど、生まれ育った王宮や、家族の元を離れるのはやはり淋しいから。


 そうだ、母上。
 一度、お暇な時にいらしてください。街を案内しましょう。
 街の外には古くからの市があって、いろいろな者が集まってそれは賑やかで。
 きっとあなたのお気に召すでしょう。



 涙の理由は寂しさなのだろうと、そう思った。
「母上?」
 揺れる肩にそっと手を置く。困ったまま、冗談めかして続ける。
「でも、母上は以前にもあの街に行かれたことがあるんでしたっけ?
 今さら、私の案内なんて必要ありませんね」
 幼い頃からなんども聞かされた の人が、同じように要職を務めた街だと聞いたから。
 父や彼の人が、力強く枝を伸ばしつつある若木のようだったころ、まだ幼さの残る母を連れて歩いただろう街。
 母は瞳を輝かせて数歩先を弾むように進み、父の目は愛おしそうにそれを見守っていたはずだ。
 あきれてその横顔を眺めながら、彼の人は母に言う。
 あなたの、お気に召すと思っていましたよ。
 思い浮かべればたやすいその光景。

「いいえ、行かなかったわ」
 か細い声が答える。
「行ってみたいと思ったのだけど」
 伏せられたままの顔からはハラハラと涙が降り続けている。
 兄がこっそりと肩をすくめて目配せする。
 理由なら、おそらくはこんなところ。
「・・・父上が、お離しにならなかったんですね?」
 きっと、忍び笑いが漏れると期待して。
 父の執着は、ときどきは兄弟のみならず、母の苦笑も伴うものだったから。
 ちいさく息を飲む音。
 ゆっくりと、涙に濡れた顔が上がる。
「・・・そうね」
 ようやく再会できた母の瞳に安堵する。
 手のひらで、濡れた頬を拭う。
 震えた睫毛が少女めいて見える。
「では、こんどこそいらしてください。ゆっくりと街を歩きましょう」
 焦点の合わない瞳は、ぼんやりとさまよう。
「街を・・・歩きたいと思っていたの、いつだったか同じように誘われて」
 ずいぶん昔のことだけど。
 小さな声がそう言った。
 ふと、少女だった母にそう告げた の人の気持ちを思う。
 同じように、離れがたい、と、そう思ったのだろうか。
 名残惜しさに後ろ髪引かれるようにして。
「また、歩けますよ」
 そのころの母はすでに父のものだった。
 だから、その想いはあまりにも切なくて秘やかなもの。
 誰にも伝わることのない秘めた想い。
「一緒に歩きましょう」
 ふと、懐かしさが黒い瞳を染めた。
 まるで、遠くを透かし見るように。
 似ているのだと、言われることもある。
 一度も会ったことのない人。
 黒い瞳がその人を思い描いてさまよう。
「そうだね」
 母は儚く微笑んだ。
  の人の想いは、ほんのわずかでも母の中に残されているのだろうか。
「ほら、あんまり母上を泣かせると、私が父上に睨まれます」
 笑って後ろを向かせる。
 はにかんで振り返った肩がひっそりと止まる。
 まるで、風の中にその声を聞いたように。


 そうだ、ユーリ。
 一度、お暇な時にいらしてください。街を案内しましょう。
 街の外には古くからの市があって、いろいろな者が集まってそれは賑やかで。
 きっとあなたのお気に召すでしょう。
 ・・・いや、兄上はあなたをお離しにならないかな?

―――――――ねえ、ユーリ?






    

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