星に至る舟



     なぜだろう。なにかが変わる気がしていた。
     ここに来れば。


 入国ゲートの案内板を見上げる。
 外国人用。
 真新しい濃紺色のパスポートを握りしめる。
 とうとう、来てしまった。
 彼にとっては挨拶程度の軽口だったのかも知れない。
 だけど、来てしまった。
 渋る家族を説き伏せて。


     どうしても、行きたいの。
     理由が知りたいから。
     なにが彼を呼んでいるのか。
     なにが彼を惹きつけているのか。


     そして、彼を惹きつけるものに自分もまた魅了されるのか。


 緊張して差し出したパスポートを審査官がパラパラめくる。
 真っ白なページを凝視していくつの夜を過ごしただろう。
 なにを探しに行くのかも分からずに。
 たん!
 スタンプが押される。
 いかつい顔の審査官が青い冊子をガラスの隙間から押し返す。
 髭の下の唇が微かに動いた。
 呟くような言葉だった。
 手を伸ばした瞬間、いかつい顔がにこりと笑った。


 見渡せば異国の人ばかりだ。
 スカーフを巻きつけた大柄な女性、張り出した腹の男性が目につく。
 母親に手を引かれた子どもは驚くほど大きな目を見開いて、こちらを見上げた。
 トランジットで降り立った空港とは客層が違う。
 自動ドアを抜けると、ひとつ息をつく。
 空気の味までもが違う。
 香料の匂いとオイルの匂い、雑然としていて……不思議に嫌な気はしなかった。
 キャリーバックを引く手に力を込める。
 いちど、遊びにおいでと彼が言ったから、来てしまった。
 何時間もかけてこの国まで。


     「また行くの?」
     「ああ、また行くんだ」
      そう言った彼は嬉しそうだった。
     「いいところなんだ、いちど遊びにおいでよ」


「……来たよ?」
 声に出してみた。
「冗談だったとしても、通じないんだから」
「詠美ちゃん!」
 懐かしい声が名前を呼んだ。
 いつも帰国後に会って驚くのだけど、真っ赤に日焼けした彼が手を振って走り寄ってくる。
「来たんだね」
 その言葉に困惑はない。弾んだ声に、歓迎されていると感じた。
「荷物、これだけ?」
 すっかり逞しくなった腕がひょいとキャリーバッグを持ち上げた。
「泊まってるの、安宿なんで女の子にはきついかもしれないけど」
 ごく無意識な動作で肘のあたりに手を添えられる。
「車で3時間ぐらいかな? 食堂のご飯はうまいよ」
「氷室さん……迷惑じゃなかった?」
 迷惑だってかまわなかったんだけど。どうしても、来たかったから。
「なんで?」
 目にするたびに、好きだと思わせる笑顔が向けられる。
「オレの掘ってるとこ、詠美ちゃんにも見せてあげる」
 日焼けした顔に、白い歯がこぼれる。
「興味を持ってくれて嬉しいよ」


     本当に?
     あなたが好きなそれを、私も好きになれると思う?
     あなたと同じものを、一緒に素敵だって思えるかな?


「遺跡って、なにが出てくるの?金貨とか?」
「金貨はまだ出てこないかな?」
 氷室は首をかしげた。
「土器のかけらや、石なんか。時々、アクセサリーとか。掘っているのは家の跡だよ」
 目を細める。
「ここが玄関だな、とか、寝室はここか、なんて考えたり。ああ、昔の人はここで暮らしていたんだなって思うんだ」
「ふうん」
 答えながら、手のひらをさぐる。手と手が触れ合うと、強く握りかえされた。
「現地で説明したほうが分かるかな」
 日焼けしすぎて赤くなっているのかどうか分からない。けれど、急に早くなった歩みに、照れているのが伝わる。
「うん、楽しみ!」
 答えながら、足取りが軽くなる。


「どういう意味?」
「え?」
 ガタピシ揺れるワゴン車の中で、彼の耳に口を近づけて尋ねる。
「あのね、空港で言われたの」
 騒音がひどくて大声を出さないと届かない。
「なんだって?」
「ほしゅ……げる……なんとか!」
「ああ」
 氷室は破顔した。
「ホシュゲルディニズ、だね?」
 車が勢いよくカーブを曲がる。バランスを崩した詠美の身体を支えながら、氷室は続けた。
「ようこそ、だよ」
「え?」
「ようこそトルコへ、詠美ちゃん!」
 ああ、そうかと、瞬間理解した。
 なにが、なんて関係ない。


     ただ、変わることが出来る。
     同じものを好きだと思えるなら。
     それは同じ映画を観て面白いと言い合うことよりももっと深くて。
     これから先、ずっと共有していけることだったりする。


 車はいつのまにか闇の中をひた走っている。
 ヘッドライトに照らされた緩やかにカーブする道。
「……来たよ」
 いつのまにか、氷室の肩に凭れながら、詠美はもう一度つぶやいた。



                    おわり 













    

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