MOMENTARY


 まあるい目があたしを見上げていた。突然現れたあたしに、びっくりしたように、精一杯に見開かれた瞳。
 この瞳の色は……。
 まさかね。
 あたしは頭を振る。そんなワケないもの。
 背を向けて立ち去ろうとしたあたしに向かって、小さな手が伸ばされる。
 むんずとばかりにスカートの裾が掴まれた。
「きゃあっ!?」
「おねえちゃん、だれ?」
 あいかわらずびっくり顔のままで、質問する。
 驚いたのは、こっちの方。まさかスカートを掴まれるなんて。
「あ……と、分かるの?」
 引き留められて質問されたんだから、分かるもなにもないんだけど。
「分かんないから聞いてるの」
 そう言うと、子どもは幼いながら精一杯深刻におでこの真ん中に皺を寄せて見せた。
「えっと、名乗るほどでもないんだけど」
「あやしい人なの?」
 ……そう、じつはすごく怪しいのよ。あたしは少し気弱になった。
「人を呼ぶ?」
 呼ばれても、まあ、たいしては困らないんだけどね。
 子どもはいきおいよく首を振った。淡い色の髪がぱらぱらと舞う。
「よばないよ」
 見上げた顔に、面影を見つけて息を飲む。
 とても、似ている。
 あの時、あたしの指を握って離さなかった方に。
 お別れするのはとても悲しかった。だけど、来てしまったから。
 あたしは、膝を着くと、子どもの顔をのぞき込む。
「……殿下?」
 おそるおそる声をかけると、子どもの頬はぷうっとふくらんだ。
「ちがうもん、ピアだもん」
 ぽんと両手をあたしの膝に置いて、琥珀の瞳がのぞきこんだ。
「でんかじゃなくて、ピアなの。でんかはガミガミ屋さんがそういうんだよ」
 ああ、やはり。
 あたしは小さな手に手のひらを重ねる。
「ピアさまとおっしゃるのね」
 この髪の色、瞳の色。あの方と同じ。
「皇帝陛下の御子なのですね」
 あたしの言葉に、小さな皇子は首をかしげる。
「そうだよ、でもどうしてそんなこときくの?」
 なによりも確かめたかったから。
 あたしの、あの日の願いが叶ったのかどうか。
 そして、出来ることなら告げたかった。
「そっか、あやしい人だもんね」
 皇子はひとりで納得したようにうなずく。
「いろいろ調べないといけないんだ」
「ピアさまの」
 あたしは、はやる気持ちでつっかえないように、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「お母さまはお元気ですか?」
 いくつもを望めないから、たった一つ選んだこと。
 もちろん、そのことに悔いはないのだけれど。
「かあさま? すごく元気だよ?」
 ぱちぱちとまばたきをして、ピア皇子は答える。
「これからお出かけするんだ」
 立ち上がると、あたしの手を掴んだ。
「あのね、向こうの丘にピクニックに行くの。おねえちゃんも一緒に行く?」
 小さな手は温かい。こんな風に感じることが出来るなんて。
 あたしは、どんな顔をしていたのだろう。
 小さな皇子は、困り顔をする。
「だいじょうぶ、かあさまは叱ったりしないよ」
 ええ、それは知っている。とてもお優しい方だから。
「そんなに遠くないよ、みんなで戦車に乗るんだよ」
 ずきんと胸が痛んだ。
「行けませんわ」
 こんなに気弱な声が出るのはなぜだろう。
 ほんのひとめ、姿を見るだけで良かったのに。遠くから元気な様子を確かめたら、喜んで旅立つつもりだったのに。
 だって、あたしの番が来てしまったんだもの。
 大切なあの方にお別れして。
 頬にフワリと手が触れた。
 皇子の心配が伝わる。
 この優しい瞳の色は似ている。
 あたしの小さな皇子さまに。その皇子さまを託して下さったあの方に。
 だから、あたしの選択は間違いではなかったのだけど。
「かあさまを呼んでくる」
「いいえ、お呼びにならないで」
 あたしは、ピア皇子の髪に手を置いた。
 柔らかなすんなりとした子どもの髪。
 あたしの皇子さまにそっくりな。
「ピアさま、どこにおられます?」
 扉が開いた。
 あたしの息は止まりそうになる。
「姿がお見えにならないと、女官たちが騒いでますよ?」
 にっこりと彼が笑う。幸せに過ごしているのだとわかる笑顔。
「あのね、おもちゃを持っていこうとおもったの」
 ピア皇子は伸び上がり、あたしの指を握った。
「きょうは、カッシュも行くの?」
「デイルさまに操縦法をお教えするのですよ」
 あたしは、彼の顔をみつめて、馬鹿みたいに突っ立っていた。
 まさか、こんな。
「ピアさまもご一緒にいかがですか?」
「……カッシュにはいい人ができたの?」
「いないよ」
 思わず呟いてしまった言葉に、即座に幼い声が答える。
 真剣な顔があたしを見返す。
「あのね、カッシュにはすっごくすっごく好きな人がいたの。その人は死んじゃったんだって」
「ピアさま?」
 カッシュが怪訝な顔をする。不思議そうにこちらを見ながら。
 懐かしい顔。懐かしい声。なにもかも変わっていない。
 まぶたが熱くなる。
「なんのお話ですか?」
 カッシュが近づいてくる。
「あのね……」
 口を開きかけたピア皇子の手をぎゅっと握る。
「あたしも、カッシュがすごくすごく好き……」
 今だって、こんなに。だから、一目会いたかった。
 あたしが、あたしでなくなる前に。
「分かった!」
 ピア皇子がぴょこんとはねた。
「おねえちゃん、ウルスラだ! カッシュのことすっごくすっごく好きなのはウルスラなんだよ。それにすっごくきれいな黒い髪!」
「ピアさま、なにを仰ってるのですか?」
 間近に迫った顔に手を伸ばす。触れた瞬間に、あたしの手は彼の身体を通り抜ける。
 こんなにも好きなのに。
 カッシュはそんなあたしに気づかずに、ピア皇子にかがみ込む。
「おねえちゃん!?」
 ピア皇子がまた目を丸くする。
 カッシュがあたしの身体を通り抜けてしまったことをまのあたりにして。
 あたしは、精一杯の笑顔を浮かべた。
「やっぱりダメですわね」
「ダメって、なにがダメなの?」
 涙が、あふれ出す。
 いつか会えると思ってた。でも、ずっと淋しかった。
「カッシュに、さよならを言うつもりだったんです。でも、ダメですわ」
 こんなにそばにいるのに、伝わらない。
 あたしは、もうすぐあたしでなくなる。あたしの順番が来てしまったから。
「カッシュ、ウルスラがさよならって!!」
 ピア皇子が、あたしの手を引っぱりながら叫んだ。
「行っちゃうよ?」
「何を仰ってるのですか、ウルスラは……」
「そこにいるよ!」
 カッシュが弾かれたように振り返る。視線を彷徨わせる。
「あいつが、いるはずはない……だって、あいつは」
「いるんだよ、泣いてるよ」
 ピア皇子が、あたしの顔を見ながら、ゆっくりと繰り返す。
「カッシュが好きだって、泣いてる」
 カッシュはがっくりと膝を着いた。
 あたしは頬を流れる涙もそのままに、ひとつ息を吐いた。
「ピアさま、カッシュに伝えて下さい」
 幼いけれど真剣な顔がうなずく。
「あたしは、順番が来たから行かないといけない。新しく、生まれるんです。あなたの知ってるウルスラじゃなくなるの」
 ピア皇子の声が、ゆっくりと慎重にあたしの言葉を繰り返す。
 カッシュの視線は、あたしと通り越して壁をにらみつけている。
「だから、最後にお別れに来たの」
 最後の最後に。
 あたしの望んだとおりに、ユーリさまは至高の地位に就かれたのか。
 大丈夫、それはカッシュが見届けてくれたはず。
 ユーリさまの大切な御子もお守りしたわ。
 あの御子もやがては順番が回ってくることでしょう。
 でもね、唯一の心残り。
 それは、あなた。
「ユーリさまはタワナアンナになられた」
 カッシュが呟くような声で言った。
「おまえが望んだとおりに。いまは陛下との間に、三人の御子がいて、こちらにおられるピア殿下は第二皇子だ」
「第三皇子よ」
 あたしの言葉に、ピア皇子は目を丸くする。
「ピアは三番目だって」
 少しだけ、カッシュは目を見張り、それから、笑った。
「そうか、そうなのか、ありがとう……ウルスラ」
 あたしはカッシュに手を伸ばした。彼の身体に触れたくて。
 ひょいと伸びた小さな手があたしの手首を掴んだ。
 そのまま、カッシュの短い髪に触れる。
 指は空を掻いたけれど、ピア皇子の手の温かさが伝わった。
「さよなら、カッシュ。大好きだったわ」
「……いつ、どこで生まれるつもりだ?」
「分かんないわよ」
 あたしは笑った。そうね、できればあんたのそばがいいわ。
 あんたが、幸せに暮らしているそばがいい。
「探しても、いいか?」
 カッシュは顔を伏せて、小さな声で言った。
「おまえを、探してもいいか、ウルスラ?」
 ぽたりと涙が転がり落ちた。
 あたしは、真剣にあたしを見上げているピア皇子にうなずいた。
「いいわ」
 あたしはあたしじゃないけれど。カッシュなら見つけてくれるのかも知れない。
「行っちゃうの?」
 手を離したあたしに、ピア皇子が訊ねる。
「ええ、もう行かなくちゃ。ここに来るのだって我が儘だったんです」
 だけど、来て良かった。
 だって、伝えられたもの。
 あたしは、あたしが大切にしてきた皇子にそっくりの、あたしが守りたかった方にそっくりの、幼い皇子の頭をなでた。
「ありがとう、ピア皇子」
 いつも、あなた方にあたしの心は救われるのね。
「さよなら、ウルスラ」
 皇子はあたしに手を振った。
「またね」
 ええ、またね。
 皇子や、カッシュや、室内の様子がぼんやりとにじみ出す。
 あたしは、濡れた頬を手のひらで拭う。



 さようなら、また会える日まで。
 
 

    

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