サムライ



「なにか理由があるのか?」
 玉座に背をあずけたまま、カイルが静かに訊ねた。
 ユーリは初めて腰を下ろす馴染みのない椅子に居心地の悪さを感じながら、視線を移す。
 一段低い床の上で、一人の男が頭を垂れている。
 がっしりとした肩や逞しい身体にピタリと合う使い込まれた皮鎧が、彼が今まで歩んできた人生を教えてくれる。
 叩き上げの軍人なのだ。
 質実にして剛健、統率力もあり、清廉な人柄は部下にも慕われている。
 だからこそ、元老院は彼をまだ幼さの残る皇子の補佐役に選んだのだろう。
「はっ」
 先ほどと同じ返事を繰り返すと、彼は床に頭を擦りつけた。
「理由があるのなら、聞かせて欲しい。私の人選は誤りだと思うのか? ─── フパシャ将軍」
 ぐっと息を飲むのが聞こえた気がした。
「わ、わたくしは」
 絞り出すように頭に白いものが混じる壮年の将軍は言った。
「陛下のご期待にはお応えできません」
 ごくわずかだがカイルが眉を顰めた様子を見て取って、ユーリは逡巡した。
 あいかわらず、椅子の背は固い。この大仰に飾り立てられた椅子には、オリエント二強のうちのひとつの権力が付随している。
 滑らかに磨かれた木製の肘掛けに指をすべらせながら、決意する。
 口を挟む権利は与えられている。いや、この椅子に腰を下ろした以上は口を開く必要があるのだ。
「それは、ジュダ殿下のことでなの?」
 平伏した肩が揺れる。
 カイルを振り向くと、うながすように頷き返される。
「あなたは、ジュダ殿下が……操られていたってことに気づかなかった自分を責めて……今回の知事任命を辞退しようというのね?」
 要衝カネシュの常駐軍を統括してきた将軍は、肩を強張らせた。
「あれは、将軍のせいではないわ」
 言いながらも、ユーリはこの説得はムダになるのではないかとおぼろげに考えた。
 彼は前の任地から直接カネシュに赴き、己が仕えることになる知事にはその地で初めて相まみえたのだ。
 常に紛争を抱えた辺境を転戦し、華やかな首都とは無縁の生活を送っていた。
 上官にあたるジュダの様子がおかしいことなどどうして分かるだろう。
 彼に非があるなどとは誰も考えていないはずだった。
 けれど、彼はお飾りにすぎなかった皇族知事が去ったのちの知事職を辞退しようとしている。
 皇帝に直訴するなど生半可ではない決意なのだろう。
 ふと、将軍のこめかみに白く光る筋があることに気づく。
 おそらくは、刀傷。
 戦場で生き、真っ正面からの敵と渡り合うことを生業にしてきた無骨な男。
 そんな彼が目の前で仕える主が手酷く扱われ、挙げ句に怪しい術で操られていたと知った時の衝撃はいかばかりだっただろう。
「わたくしは、戦うだけしか能のない男です。とても、知事職など」
 拝命式を前に、そう申し出た彼の心中を慮って、ユーリはため息をついた。
 ヒッタイトには将が足りない。
 今さらながら、カイルが嘆いた言葉を思い出す。
「あなたなら、できると思っているの。ううん、あなただから」
 ヒッタイトの版図が広がった今でも、カネシュは国境でこそないが交通の要衝に変わりない。東方よりの隊商路とアッシリアに連なる大河が流れている。
 だからこそ有事には即座に軍を動かすことのできる者に任せたい。
 彼のように、忠義に篤い兵を知りつくした人物に。
「フパシャ将軍」
 カイルが立ち上がる。並ぶ席に歩み寄るとユーリの肩に手を置いて、相変わらず俯いたままの将軍を振り返る。
「まだ、公にはしていないが、わが妻には子がいる」
 将軍の、白髪まじりの頭が動いた。
「ご懐妊……?」
 反射的に言祝ごうとして、カイルの視線に息を飲んだのが分かる。
 慶事にもかかわらず、皇帝の目は真摯な色をたたえている。
「私たちにはこの国を守る義務がある」
 カイルを仰ぎ見たユーリは、黙って腹部に手をあてた。
 この国を守るため。
 自分の在位を楽に終えたくはないとカイルは言ったのだった。
 いまだ困難なことは山積みで、これから先にもなにが待ちかまえているのか分からない。
 だから、いまできることをやり遂げなくてはいけない。
 ユーリはひとつ息をついて立ち上がった。
 将軍との間を隔てる一段を下りる。
 高貴な人が歩み寄ることに強張る肩に、そっと手を添える。
 懇願する。
「私たちに力を貸して」
 ジュダを奉じて守り抜いた彼だから、出来るだろう。
「お願い」
 振り仰ぐ彼の瞳を見つめる。
 武人の目は真っ直ぐだからこそ、逸らすことをよしとしない。
 不意にユーリは納得する。
 これを探していたのだろう。
 あの日、将がいないと嘆いたカイルは、だからこそ、二人で歩む治世のはじめに見つけ出そうとしている。
 理想に近づくために手助けしてくれる人を。
「もったいないお言葉です」
 握りしめた拳が、ゆるみはじめた目蓋をぬぐった。
「……わたくしめの力が及びますなら」
 壇上のカイルの目許が和らいだ。
 ひとつ、前進できた。
 まだ、ふたりで歩く道は平坦ではないのだけれど。
「……ありがとう」
 ユーリは安堵にため息をつく。


 まだ、先は長いけれど、一歩一歩を踏みしめてゆこう。
 彼らの、真っ直ぐな視線に恥じないように。


                おわり

      

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