続・大奥からの逃亡

                                     by千代子さん

 「旗本っていうと、あたしを捕まえに来たの!?」
 ユーリは思わず叫んでしまった。後ろで火消しの親方が、
 「おユーリちゃん、声が高けぇって」
 と慌てて裾を引いた。
 「捕まえるとは、おまえ何かしたのか?」
 男はユーリを上から下へと眺めながら、
 「桶屋から逃げたにしては随分ななりだな」
 とにんまり笑った。
 「桶屋ですって? しつれいね」
 ユーリは花街の女と思われたことに怒り、反射的に手を振りかざした。が、男目掛けて振り下ろした手を、男は見事なステップを踏んでかわしてしまった。
 「とんだじゃじゃ馬娘だ。これじゃあ桶屋の女将も扱いにくかったろうな」
 そのままひらりと後ろを向くと、男は不敵な笑いを残して日本橋の雑踏のなかに姿を消して行った。
 「なんて失礼なヤツかしら」
 ちょっと見てくれが良かったものだから、一瞬くらっと来たけど、とんでもないヤツだ。あの目つきは相当な女たらしに違いない。
 「じゃあ、おユーリちゃん、急ごうか。追っ手が来ちまう」
 いらついて口を河豚のように膨らませたままのユーリに、親方が恐る恐る先を促した。
 それほどユーリの顔は恐ろしかったのか?
 「で、どこに行くの? あたしたち」
 今更ながらユーリは気がついた。親方はどこへかくまってくれるというのだろう?
 「とりあえず、うちにおいでなせぇ。うちならお城ともお家とも何の関係もねぇ。何の心配もねぇでしょうから」
 ほ組の親方の家は日本橋のなかにあると言う。
 大丈夫かしら……?
 一抹の不安があったが、ユーリは親方について行くしかなかった。

 親方の奥さんは優しい人だった。
 商家の出らしく、ユーリを実の娘のように世話してくれたが、外出だけは許してくれなかった。
 「もしもお城からの御使者に見つかったら大変なことになるでしょう?」
 そう言われればユーリはしおらしく家の中に居るしかなくなってしまう。
 しかし、親方の家にかくまわれてから二ヶ月ともなれば、体もなまるし外に出たくてたまらなくなる。
 家事を手伝っていても、買い物には出させてもらえないし、なにか事件があってもやじ馬に出ることもかなわなかった。
 「家に居るばかりってつまらない」
 大奥にご奉公していたときは、お端だったから何かあれば外に出ることは出来た。
 竹橋の飴屋、九段坂の饅頭屋、半蔵門のうどん屋……懐かしいなぁ。
 どういうわけか浮かんでくるのは食べもの屋ばかりだったが、一度思いつくと実行しなければ収まらないユーリは、居ても立っても居られなくなってしまった。
 ――ちょっとだけなら、大丈夫だよね?
 大奥から逃げたほどのユーリにとって、町家ひとつ抜け出すのは容易いことだ。
 この界隈はいつも何かしらの騒動があるから、その機に乗じて裏口からこっそりと抜け出せるはずだ。
 しかし、朝から今か今かとねらいを定めていたが、一向にその機会は訪れない。
 ――おかしいなぁ、いつもなんか起きるのに……
 もう今日はだめか、と思いかけたそのとき、親方が勢いよく家に飛び込んできた。
 何か大きな声で奥さんに話している。
 「何があったんですか?」
 ユーリは、玄関で怒鳴りながら若い衆に指示を出している親方に聞いた。
 「火事だ!! 横丁のうどん屋から出火しやがった!」
 チャンス到来!!
 火事には悪いが、絶好の機会だ。
 町中は異様な騒ぎになっている。
 もしかしたら食事屋など用を成さなくなっているかもしれないが、ユーリにとっては外にさえ出られればどうでもよかった。
 「おユーリさん、どちらへお行きなさるんで?」
 手代が目ざとく見つけて聞いてきた。
 「ちょっとはばかりへ……」
 実際お便所とは方向が逆だったが、ユーリはまんまと脱出に成功した。
 「うまくいった! さてと、二刻くらいのんびりしてても大丈夫だよね」
 うどん屋の火事は通り二つ向こうらしい。
 ユーリの歩くこちら側はずいぶんと静かなものだ。
ユーリは鼻歌を歌いながら、鹿の子の巾着をぶらつかせて仲見世を覗いて歩いた。
 町内で一番のおてんばぶりを発揮しても、さすがに若い娘らしく店を覗いて買い物するのは楽しい。
 ましてや今まで軟禁状態にあったのだから、水を得た魚のごとく飛び回るのも仕方なかっただろう。
 だがしかし、そんなユーリを狙う目があった。
 近頃この辺りを縄張りにしている大商家の跡取り息子、ラム衛門である。
 しかしユーリは嬉しさいっぱいで気が付かない。
 ラム衛門はユーリが一通りの比較的少ないとおりに入ったところで、背後から肩をつかんだ。
 「おねぇちゃん、ひとりだろ? いいところ連れてってやるから一緒に来いや」
 金持ちのボンボンなラム衛門は今まで自分の思い通りにならない女はいなかった。
だからこのときも簡単にユーリがなびいてくると思い、口にネコジャラシなんか咥えてユーリの肩に手をかけ、片足をまげてかっこつけていた。
「なに言ってるの!?」
言いながらユーリの見事な平手打ちが頬に思いっきりヒットした。
ラム衛門の左頬はユーリの掌の跡がくっきりと残ってしまった。
「……おかっちゃんにも殴られたことないのに」
ユーリはわなわなと震えるラム衛門を警戒しながら、逃げなきゃと後退りした。
だが、ラム衛門はユーリの腕を掴んで、
「気に入った。俺の嫁に来い」
肩頬を真っ赤に膨れ上がらせて、満面の笑みを浮かべて言う。
「なんですって!?」
自分を殴った女を嫁に欲しいなんて、もしかして○ド!?
一応ルックスはそんなに悪くないけど、目の色違うし……肌は浅黒いし……
ユーリがどうでもいいことを悩む間も、ラム衛門はじりじりと迫ってくる。
「俺が必ずあんたをウチの女将にしてやるよ」
そりゃ、あんたと結婚すれば必然的に家業を継がなきゃならないんでしょうよ、何言ってるの。
「いいだろう、俺と一緒に銀座に行こう」
「やだってば!」
そのときだった。
石つぶてがラム衛門のデコに命中したのだ。
つぶてが飛んできたほうを見ると、一人の侍が手の中のつぶてを空中キャッチしながらこちらを見据えていた。
それは例のまといを片手で軽々と持ち上げ、ムルシリ田カイル之進と名乗ったあの侍だった。
ユーリはあの失礼なひとだと思ったが、これ幸い、ラム衛門の手を振り解き、男の背に隠れた。
「その娘っ子を寄越しやがれ。そいつは俺の女になるんだぞ」
デコの真中を千〇夫の黒子のように腫れあがらせて、ラム衛門は顔を真っ赤にして迫ってきた。
「それはどうかね。この娘はもうわしのツバ付きだぞ」
ユーリは目を丸くして反論しようとしたが、いまはその状況ではなかった。
ラム衛門は腰の刀を抜いて襲い掛かってきた。
こんなひ弱なお侍さんじゃやられちゃう!
ユーリは両手で目を覆った。
刀の交差する音がした、と思ったらすぐに何かが倒れる音がした。
恐る恐る指の間から見ると、ラム衛門が頭上に星を浮かべて倒れているではないか。
「……死んだの?」
「いや、気を失ってるだけだ」
たしかに呼吸しているらしい。胸の辺りが上下している。
見ると、右手に握られた刀は手のひらサイズだ。腰に挿してある鞘は長いから、武家ではないので見せかけだけでも長刀を刺したいと思ったのだろうか?
「ありがとうございます、お侍さま。このご恩は一生忘れません」
珍しくユーリはしおらしくなった。
そのとき、遠くのほうから口々に何かを叫びながら、明らかに幕臣と見える侍たちがこちらに駆け寄ってきた。
やばい、見つかった!
この騒ぎで誰かが通報したのだろうか。
ごめんなさい、おとっつあん、おかっつあん。
それから火消しの親方、女将さん。
これでお家は取り潰し。さらに晒し首も免れないかもしれない。
「殿!」
殿? そういえばもとは上さまのお目に止まったのがいけなかったんだ。殿の目に……
……殿?
殿って……
「何度申し上げればよろしゅうございますか! あれほど市中の御一人歩きはお止めくださいますようお願いしておりますのに!!」
目の細い側用人が泣きながら叫んだ。
「軽々しく物見遊山のできる御身分でおいででないことくらい、お分かりでございましょう」
髷がどこまでも長い侍が呆れ顔で言う。
「これ、娘、このお方をどなたと心得る」
髷の長い侍は、地面に髪の先がつくのを気にしている様子だった。
「ど、どなたって……」
なんとなく判りかけてきたが、認めたくない。
「娘、頭が高い。このご紋が目に入らぬか」
髷の長い侍は、刀の鞘の部分にある家門を指した。
「やっぱり、お城のお殿さま!?」
この人が、自分を寝所に呼んだ女好きの将軍か。
どう見てもかっこいいお侍さまにしか見えない。
「そなた、名をなんと言う」
「ユ、ユーリと申します」
「ではそなた、城へ参れ。部屋を与えようぞ」
女好きの将軍は思った。
やはり女は自分の目で見定めたのに限る、と。
「これにて一件落着」
髷の長い侍が、髪の毛が風で舞うのを抑えながら誇らしげに言った。


                          ……落着?

     

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