燈花

                             by 千代子さん

 手にしっとりと残った感触が、忘れられなかった。
 細い腰を抱きとめたときに感じた体温のぬくみも、首筋を掠める吐息も、自分のものではないことはわかっている。
これは恋ではないはず……兄上の想い人だからこそ大切にしたいと思っているはずなのに、甘やかなこの感情はなんなのだろうか。
 剣の相手をしているときには気づかなかった、肩の丸みや僅かに覗く胸元に、彼女が立派に女なのだと思い知らされる。
「やっぱり、ちょっと派手すぎるよね…」
 開いた胸元を隠そうと、ベールを引き揚げるユーリ。
「こんな飾りだって…あ、ほら、また…見られてる」
「恥かしいのか? そんなに隠れるようにしなくたって…」
「だって……ンもう! 皇子のいじわる!!」
 恥かしがってそっぽを向いた彼女を、心底愛しそうに見つめる兄の瞳。
 そして、その二人を眺めているわたしは、彼らとは違う次元にいるような気がする。
 一緒の空間にいるはずなのに、まるで見えない壁があるようだ。
「…皇子ってば、やっぱりこういう服のほうが好きなのね」
 ――上目使いで兄を見上げるユーリは、頬を染めて唇を尖らせている。
「それはもちろん、おまえが女らしいほうが…」
「もうっ、スケベなんだからっ!」
 ――その唇の、紅を刷いてふっくらとした優しさに、目が離せない。
「なんでそういう話になるのだ?」
「皇子のばかっ! ねえ、ザナンザ皇子!」
「……え…?」
 つかの間、別の世界に遊んでいた意識が引き戻されたのに、つい驚いた。
 兄とユーリはわたしの反応の遅いのに驚いたか、じっとこちらを見つめている。
「どうかしたか、ザナンザ?」
「あ、いいえ、失礼しました」
「大丈夫? 皇子、具合悪い?」
 黒い瞳に覗き込まれて、答えようとした口元が急に引き締まった。
「…熱はなさそうね?」
 白い手に両手を包まれて、わたしはあの感触を思い出す。
 そう、この柔らかさだ。あのとき、この手に抱きとめたのは、この熱さだ。
「…大丈夫だよ、ユーリ。少し宴の雰囲気に酔っただけだから」
「さすがに父上主催の宴だと人も多いからな」
「ええ、カネシュに赴いてからは久しくないものですから」
 なんとなく兄から目線を外しつつ、差し障りのない言葉で誤魔化してみたが、気づかれてはいないだろうか。
 ……何に、だ?
 わたしは何を何故、兄上に知られたくないのだろうか?
「本当に大丈夫? あたし、何か冷たいもの貰ってくるね」
 そんなものは侍女に持たせればいいのに、と兄が言うよりも早く、ユーリは毬が転がるように小走りで駆けて行った。
「まったく、落ち着かないやつだな」
 いかにもというように溜息をついているが、その実、兄が心底嬉しがってその後ろ姿を追っているのは、手にとるようにわかる。
「ユーリの黒髪はどこにいても目立つな」
 誰に言うともなしに呟いた言葉に、知らずに頷くわたしを兄は振り返って、
「あの髪には華やかな飾りが似合うと思わないか?」
 と言う兄に、わたしは努めて表情を変えずに答える。
「兄上のお選びになるものなら、きっと似合いましょうね」
 ゆったりと頷く兄は、かつてこのように女性の髪飾りなどに興味を示したことはなかったはずだ。
 少なくとも、わたしの知っている兄はこんなことは言わなかった。
 それを変えたのは、ユーリなのだ。
 兄の心に飛び込んで、こんなにも兄を優しくしたのは、ユーリだ。
 彼女の姿を目で追う兄の横顔を見つめながら、わたしは言いようのない感情に襲われる。
「…兄上は…」
「うん?」
「いいえ、なんでもありません」
「なんだ、おかしなやつだな」
 にこやかに微笑む表情は変わっていないのに、その瞳にあふれる気持ちがかつてとは違う。
 こんなにも人は変われるものなのだろうか。
 兄上はとうとうただ一人の女性を見つけたのだ。
 そして、彼女はわたしの手の届かない河岸にいる。

 できることならば、時間を戻して、止めて欲しい。
 彼女を抱きとめた感触を忘れないように、手のひらの柔らかさを忘れないように。

                        おわり

       

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