視線

                        
by きくえさん




 ぽつりと落とされたそれは、今まで一点の曇りも無かった場所に僅かな滲みを成した。


 ゴトッと言った鈍い音に我に返ると、足元に転がって揺れているカップが視界の端に入る。
 一瞬の沈黙の後のどよめき。
 突如現れた美の女神に、王宮内の誰もが讃辞を呈していた。
「いや、驚きましたね。まさか、ユーリさまがあれほどお美しい方だったとは…」
 傍らに立っているキックリが、ユーリさまから視線を外す事無く話しかける。
「あぁ、そうだな……」
 初めて「カイル殿下のご側室」とやらを拝見した時は、殿下の気を疑ったものだが、少年にしか見えなかったあの少女がよもや、ああも魅惑的な女性に変わるとは、誰が想像できただろうか。しかし、わたしの視線は既にユーリさまからは外れていた。
 ザナンザ殿下にエスコートされてきたユーリさまを、カイル殿下が愛しそうに見つめている。
 そして、その傍らに立つ人物の瞳からも、それを僅かに滲ませた視線がほんの一瞬見え隠れしたのを、わたしは見逃さなかった。


 もともと華やかな席があまり好きではない自分が今回の宴に出席したのは、ナキア皇妃の動向を監視するためだった。しかし、先程のザナンザ殿下の表情を見てから、何とも言い知れぬ不安が募ってきた。
 いや、予兆はすでに始まっていたのだ・・・。

 宴の始めこそ、御三人で共に居られたが、有力な皇族方を他の皇族や貴族が黙って放って置くわけが無く、今や、カイル殿下とザナンザ殿下は全く離れた場所でそれぞれ近隣の知事や元老院議員をお相手にされていた。
 ユーリさまは勿論カイル殿下のお側に、少し殿下の後に隠れるようにしておられ、時々話しかけてくる相手に愛想笑いを懸命になさっておいでだ。
 カイル殿下とユーリさまから目を外せば、ザナンザ殿下が目に入る。
 そして、その方の視線の先には・・・・・・。
 どなたを見てらっしゃるのか、あまり考えたくない気がするな・・・。

 自覚がおありなのか、そうではないのか・・・ザナンザ殿下は、はっと気が付いたようにお二人から視線を外し、話しかけてくる議員のお相手をされるが、しばらくするとまた視線のみが議員を通り抜けていらっしゃる。
 一体、私は何が心配だというのだろう?
 お二人とも、一人の女性をめぐって仲違いをなさるような方ではない。事実、これまでも、カイル殿下の寵を受けてらした女性がその後ザナンザ殿下とも関係を持たれたりしたことは何度かあったことだ。その逆も、また然り。
 しかし・・・カイル殿下のこれまでにない執着を見ると、とてもこれまでと同じ様に済むとは思えない。


滲みが、少しずつ滲んで広がってゆく。


「イル・バーニ殿、どうかされましたかな?」
 今まで横からごちゃごちゃと話しかけてきていた貴族の一人が、私が黙り込んだ事にいぶかしむ。
「あぁ・・・これは失礼しました。少々酔ってしまったようです」
 唇を湿らすほどしか飲んでいなかったのだからそれはありえない事なのだが、いい加減、相手をするのにも疲れてきた頃だ。
 ふと見ると、ユーリさまが・・・その後、ザナンザ殿下がバルコニーに出られたのが目に入った。
「バルコニーででも酔いを醒まして参ります。では・・・」
 有無を言わせず、その場を後にしてバルコニーに向かう。

 ザナンザ殿下とユーリさまがいらっしゃる場所から少し離れた柱に、そっと身を潜める。
 何を話しておられるのか良く聞こえないが、ユーリさまが驚かれてる表情がよく分かる。
 もう少し、近くへ・・・。

「・・・・・・わたしが覚えている母は、小柄で細やかで・・・少女のような女性だった。ちょうど、あなたのような・・・・・・」
 背後の喧騒とは無縁な、殿下の静かな声が聞こえてきた。
 ユーリさまの顔は、驚きから戸惑いへ。なんと答えれば良いのか、お解かりにならないのだろう。

 その時、カイル殿下がユーリさまをお呼びになり、ユーリさまはバルコニーを後にされた。
「ご・・・ごめんなさい皇子。失礼しますね」
「・・・・・・・・・」
 無言でユーリさまを送られた殿下は、今もお二人を眺めている。
 これは・・・もう・・・・・・。
 誰かが言うしかないのだろう。
 そう、本気になられる前に。
 心に広がりきってしまわれる前に。

「ザナンザ殿下・・・」
「あぁ、イル・バーニか。どうだ、つきあわないか?今晩は少し過ごしたい気分だ」
「殿下、ご正妃でもご側室でも早くお迎えなさいませ。
 あなたさまだけのお方を・・・」
 何でもないようにそう言うと、ご自分の気持ちが露見しているとは思ってもいらっしゃらなかったのだろう、一瞬目を見開くと、ふいっと視線を外して背を向けてしまわれた。
 これぐらいで、その想いが止まれば幸いだ。

「何をよけいな気をまわしてるんだ。
 わたしは別に・・・・・・」
 一瞬赤くなった頬は、夜風がそのまま攫っていった。
 無言でワインを一気に飲み干される。
 わたしは殿下に聞かれないように、そっと溜め息をつくと、
「それでしたら、結構なのです。ご無礼、お許しください」
 背中を背けたままの殿下に一礼をし、その場を後にした。

『わたしは別に・・・・・・』ユーリさまを何とも思ってらっしゃらないと、本気で仰るのか?
 独り星を眺める殿下に、無言で尋ねる。


 ザナンザの心に滲み込んだ想いは薄まったのか?
 それとも・・・・・・




                       END

     

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