PLUM



 その報がもたらされたのは、あたし達がちょうど二人きりの夜の時間を過ごしていた時だった。
 カイルはいつものようにワインのカップを傾け、あたしは今日一日にあったことをとりとめもなく話す。国事のことや子供達のこと、庭で見つけた花のこと。
 そして、そんなあたしをカイル穏やかな瞳が包み込む。カイルのワインが空になれば、伸ばされた腕があたしを抱き寄せる。
 それが、あたしたちの夜の過ごし方だった。
 だから、慌ただしい声がカイルを呼んだとき、あたし達は顔を見合わせた。
 この時間を侵す者が、いままでいたためしはなかったから。だからこそ、火急の用件が気になった。
 カイルが報告をうながしたとき、急使があたしの顔をうかがったのは、不思議なことだった。タワナアンナが、急報を受けるのにはばかることがあるはずがなかったから。
「・・・報は、ニアス家からでございます」
 カイルの顔色が、変わったような気がした。彼は低くうなずくと、すぐさま急使を隣室へいざなった。
 わずかな時間の後、カイルが戻ってきた。戻ってくるなり、抱き寄せられた。
「・・・なにが、あったの?」
「たいしたことではないよ」
 それは嘘だと、思った。
 その夜のカイルは、いつもと同じに優しかったけれど、あたしの心には、一瞬の青ざめたカイルの顔が焼き付いていた。



 カイルが、娘を抱き上げている。甲高いはしゃぎ声がここまで聞こえてくる。
 窓枠にひじを突いたままその姿を見下ろして、あたしはため息をつく。
「いかがなさいました?」
 声をかけてきたのは、ハディ。
「カイルが・・ヘン」
「陛下が、ですか?」
 並んで中庭を見下ろしながら、ハディは首をかしげる。
「そうでしょうか?」
 多分、他の人には分からない。今日のカイルは、いつもよりほんの少し多く、子供達に触れる。あたしに対しても、抱きしめながら不意にため息をついたり。
 いぶかしむあたしに、なんでもないよと笑いかける。
 昨日の急使から。
「・・・ねえ、ハディ。ニアス家ってなに?」
 昨日のカイルの顔色を変えさせたもの。
「さあ、聞きませんわね、宮中にはお目通りを許されてない家柄では?」
 ハディが首をかしげる。  
 皇帝と皇妃の寝所に急使が走り込むほどなんだから、いやしい家柄ではないはずなのに。
 あたしは、思いついて、後宮侍従長を呼ぶ。
 先々代の皇帝から使えている彼ならなにか知っているかも知れない。

「ああ、旧家でございます。後宮に侍女を出したりもした家です」
 老いた侍従長は、頭を下げて言った。
「侍女を?」
 それなら、貴族としては位の低い方なのだろうか?
 思いついて口にする。
「その侍女は・・皇帝陛下にお仕えしていたの?」
 なじみの侍女・・何となく、そんな言葉が浮かんだ。
「いえ、アレニアさまは、ヒンティ皇妃陛下に仕えました。陛下のお亡くなりになられた後は、後宮より退かれ・・いや、その後再び出仕されましたかな?」
 首をかしげる侍従長に、手を振る。
「良いよ、侍女なら記録が残っている。自分で調べるから」
 書庫で調べれば分かるはずだった。
 


 膨大な資料の中から、その名前は簡単に見つかった。
 アレニア・ニアスは、いまだ王宮から年金を受け取っていたから。
「侍女が・・年金?」
 カイルのお母様に仕えた侍女なら、後宮にはそう長くは勤めていないはずだった。
 年金がつく者は、長期間勤務した者か、よほどの功があったものに限られている。
「シュッピルリウマ二世陛下よりの勅状がございます」
 書庫管理官はそう言うと、粘土板を差し出した。
 皇帝の印が押された粘土板には、アレニア・ニアスが、傅育係を勤めたために領地と年金が与えるということが記されていた。
「傅育係?」
 そんな重要な職についていたのなら、なぜ侍従長はそのことを言わなかったのだろう。
 あたしの後ろで、ハディがあっと声を上げた。
「・・・?」
「皇妃陛下は・・ご存じないのですか?」
 管理官が、不思議そうにあたしを見た。
「ご存じなくて、当然です」
 きっぱりとハディが言った。
「ユーリさまがお知りになる必要などありませんわ」 
 あたしは、肘のあたりを軽く掴んだハディに抵抗した。
「どうして、あたしは知りたいわ」
 カイルのことなら、なんでも知りたい。それに、あたしから隠そうとする態度が腑に落ちない。
「傅育係といっても、御子をお育てするのではなく、その・・男女間のことを・・」
 管理官が口ごもりながら言った。
 だから、あたしは理解した。そういう制度があるのは知っていた。
 皇子であるカイルが、そういう役目の女性を与えられていたのが当然であることも理解してはいた。
「そっか・・」
 それでも、ショックだった。だって、アレニア・ニアスはカイルの初めての女性だったから。きっと、初めての人は、他の恋人達とは違う意味で、カイルの中に残っている。
「アレニアさまが、なにか?」
 ハディに射すくめられながら、管理官が小声で訊ねる。
「昨日、急使がきたの」
「まさか、そんな」
 ハディが憤懣やるかたなし、といった声で言う。
「このような役目を勤めた者は、その後一切、関わりをもってはならないはずです」
「でも、きたの」
 そして、カイルは急使に会った。
 本当なら、退けても良かった掟破りの急使に会った。



 彼女のいるところはすぐに分かる。
 カイルの父君から与えられた領地に今も屋敷を構えている。
 ハットウサから、馬で丸一日半の距離の場所に、彼女の屋敷はあった。
 黙り込んだあたしの代わりに、ハディが調べるための者を派遣したらしい。
 あたしは、多分ハディならそうしてくれるのだろうと、心のどこかで考えていたに違いない。
 だから、アレニア・ニアスが病の床にあることを、もう長くはないということを聞いたとき、覚悟を決めるしかなかった。
 カイルがあたしから隠そうとしていたことを暴いてしまったのだから。
 報告を受けたはずのカイルは、表面上はいつもと変わらない毎日を送っている。
 時々その視線が遠くをさまようのを、あたしは気づかないフリをする。
 未練、ではない。でも、忘れることなど出来ない。
 アレニアは、母親を亡くしたカイルを一時でも抱きしめた女性だったから。
 カイルの肌を感じるたびに、あたしは想いに押し潰されそうになる。
 どうしようもないことだけれど、一番辛いときにそばにいて上げたかった。
 それをしてくれた女性に対してカイルが冷淡に振る舞うのを、あたしは見過ごすつもりなんだろうか。
 カイルは、急使にあった。
 そのことが、あたしの背中を押す。



 ハディは止めなかった。ただ、同行することだけを申し出た。
 明け方、眠るカイルと子供達にキスをして、王宮を抜け出す。
 無言で馬を走らせながら、暁の空が滲んでいくのを見た。
 カイルの過去に、会いに行く。



 小さいが趣味の良い屋敷には、翌日の昼に着いた。
 屋敷のまわりには背の低い樹木が植えられていて、重なり合った葉の間からつややかな果実を覗かせていた。
 建物の向こうには大きな森が広がっている。
 屋敷は明るい色に塗られていて、その奥で死の床に伏した人がいるようには感じられなかった。
 とても、静かな風景だと思った。
 双子が馬を飛び降りて、玄関を叩く。
 あたしは、ただ、緑の香りを胸一杯に吸い込んだ。甘酸っぱい香りが、流れこむ。
 戸口から姿をあらわした人物が、転がるように近寄ってくる。
「皇妃さま、もったいないことで」
 言うなりその人は地に伏せる。
「・・・あなたは?」
「アレニアの息子です」
 シャラがそっと言う。
「急使を出したのは、この者のようです」
 リュイの言葉にあたしは問いかける。
「陛下に会いたがっていたのは、アレニアさんではないの?」
 男は、ますます平伏する。震えながら、言葉を紡ぐ。
「いえ、母は・・・ただ、陛下の思い出話ばかりをするので、せめてもお言葉だけでもいただけたら、と・・申し訳ありません!!」
 息子というのは、いくつくらいなのだろうか?カイルより少し年上なのか。母が賜った役目を、彼はどんな思いで見ていたのだろう。
「アレニアさんに、会いたいわ・・陛下の名代として」



 彼女は、もう美しくはなかった。
 時と病が冷酷に、彼女の上からかっての栄誉の影を奪い取っていた。
 大きな寝具の中に、痩せこけた身体が埋まるように横たわり、枕の上には艶を失った髪が散らばっていた。
 苦しそうな息づかいが、骨の浮き出た胸元を上下させている。
 あたしは、動けなくなった。
 こんな彼女を見るのは、残酷な仕打ちのように思えた。
「どなたかしら」
 不意に彼女が目を開く。澄んだ青い瞳が、あたしを見上げていた。
「・・ごめんなさい。起こしてしまった?」
 どう、挨拶すればいいのかも、分からなかった。
 病んだ女性は、弱々しく笑みを浮かべた。
「いいえ、最近眠りが浅いの。すぐに目が覚めるのよ」
 言うと、身体を起こそうとした。あたしは慌ててとどめようとする。
「窓の外が見たいの、手伝ってくださる?」
 仕方なしに、細い身体を支えて、辛くないように背中に枕をあてがう。ほんのわずか、彼女の肌に触れる。驚くほど、生気の失われた肌。
「ああ、もう食べ頃ね」
 歌うように彼女は言った。
「あなたも、いくつかお持ちなさい・・」
 それから、はじめていぶかしむ
「どこかで、お会いしたかしら」
「いいえ、初めてです」
 続け方が分からなくて黙り込んだあたしに、彼女は微笑みかける。
「・・・不思議だわ、あなたは懐かしい匂いがする」
 それから、そっと瞳を閉じる。
「こうしていれば、とても幸せな気分」
 それきり、動かなくなった彼女は、やがて寝息を立て始める。
 あたしは、苦労してその身体を横たえた。 
 夢とうつつの狭間にいるように、ふわふわと心を浮遊させている女性を見下ろす。
「こちらには、どうしていらっしゃったの?」
 不意にアレニアが口を開いた。目蓋は閉じられたままだった。
「・・・代わりに会いに行くようにと・・」
 途中で考えたもっともらしい言い訳を、かろうじて思い浮かべる。
 アレニアが笑った。さざ波が立つような、穏やかだけれど、華やいだ笑い声だった。
「初めてお会いしたとき・・・とてもお寂しそうだったのよ。でも」
 大きく息継ぎをする、喉が乾いた音を立てた。
「今は、お幸せなのね・・あなたがいるから」
 あたしは、骨張った指を包んだ。
「・・・陛下は早く良くなるようにと・・」
「お早くお帰りになることね」
 指先に、かすかに力が込められた気がした。
「・・あの方は、一人になることが怖いの。勝手に出てこられて、心配なさるでしょう」
「勝手にだなんて」
 青い瞳に、涙が盛り上がっていた。きらきらと光る滴が、ほおを転がり落ちてゆく。
「お優しいのね・・・あなたで、良かった」
 一瞬、若く美しい彼女が、微笑みかけているような気がした。
 木漏れ日の中、美しいアレニアが、一人の少年に微笑みかける。
「もう、ここに来られてはだめよ・・陛下のそばに」
「・・あたしは、ずっと陛下のそばにいます・・」
 両手で、彼女の指を包みながら、誓うようにささやく。
「ありがとう」
 二人の言葉が、重なった。



 3日間王宮を留守にして帰ってきたあたしを、カイルは無言で迎えた。
 不満を訴えながらまとわりつく子供達を寝かしつけ、ようやく寝所に引き上げたときにも、カイルは言葉なくカップを傾けていた。
 いままでどこにいたのか、報告はいっているはずだった。
 あたしは、無言で籠を差し出す。
 籠の中には、色づいた果実があふれんばかりに盛られている。
 カイルの眉がひそめられる。
「お土産・・・重かったのよ」
 一つだけ取り上げて、歯をたてる。
 張りのある皮がぷちりと弾け甘酸っぱさが広がった。
「好きでしょう?」
 カイルが、ため息をついた。
「ユーリ・・何度も言っているが、王宮を抜け出す時には・・」
「言えば止めたでしょう?」
 囓りかけの果実をカイルの手に押しつけた。
「あたしは、会いに行く必要があったの」
 あたしの出来なかったことをした女性に。
「ユーリ」
 あたしはカイルの身体を抱きしめた。
 いつも、抱きしめてくれる腕を、強く抱きしめる。
 きっと、この腕は昔はもっと細かった。
 カイルの頬を両手で挟んで、瞳をのぞき込む。
 この瞳だって、昔はもっと寂しかった。
「ユーリ・・どうして泣いている?」
 カイルの声が、優しく響く。
 あたしは泣きながら笑顔を作った。
 綺麗だった頃のアレニアが笑ったように。
「・・・だって、好きだから」
 カイルが泣かないと言うのなら、あたしが泣こう。


 初めから出会っていれば良かったなんて考えても仕方がない。
 だけど、これからはずっと離れずそばにいる。



                 終          

     

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