Tirta@



第一話 ファナ

 
ファナは血が滲みそうなほど強く唇を噛みしめて、乾いた土くれが投げ込まれるのを見ていた。
 白茶けた台地の隅に穿たれた穴の底には、色あせた布の固まりが隠れようとしている。
 ざくり。
 またひとすくいの土が投げられる。
 ひっそりと乾いた小さな母親の身体を包む布は、以前は目を見張るほど白く晒されていた。
 母が誇らしげにその布を纏っていた姿が、かげろうのように浮かんだ。
『ごらん、気前がいいねえ』
 これから花嫁になる少女のように頬を染めて新しい衣装の裾をつまんで見せた。
 抱えきれないほどの小麦の袋を手のひらで撫でると母は言った。
『これから、あたしたちの生活も楽になるよ』
 けれど、ファナの一家に息をつく暇はなかったのだ。
 神殿前で気前の良い振る舞いがあった日から一月も経たないうちに、父が崖から転落して死んだ。
 少しでも山羊たちに草を与えようと、細い山道を登る最中の事だった。
 村の男達が苦労して運んできた父の亡骸を、母は呆然と見つめた。
 残されたのは、わずかの山羊の群れと、ファナ達兄弟4人だった。
 母の細腕一つでは、ろくに食べることもかなわなかった。
 疫病がやってきたのは夏のこと。
 町や近隣の村の住民はバタバタと倒れた。
 国庫が開かれた頃には、母は病の床にあった。
『なにしろこの国には女神様がいらっしゃるのだから』
 わずかの粥を押し頂いて、母は手を合わせた。
『ありがたい、皆のことを考えて下さるのだね』
 なにがありがたいものか。
 ファナは乾いた眼を大きく見開いてささやかな参列者を見た。
 誰も彼もが疲れ切って埃をかぶっている。
 皇帝が女神を娶った祝祭の日の高揚はどこにもない。
 あれから一家の暮らしは楽にはならないばかりか、ますます苦しくなるだけだった。
 女神の加護などなかったのだ。
 大きくしゃくり上げながら、幼い弟がファナの服を掴んだ。
 頭を引き寄せながら、もう一度唇を噛む。
 女神なんて、嘘っぱちだ。
「これから、どうするね?」
 近隣の村から歩いてやって来た母方の叔父が声をかける。
「全員を引き取る訳には・・・」
 叔父の所も生活は似たり寄ったりだった。
 急に4人の子どもが増えても食べさせられるはずがなかった。
 叔父は疲れた肩を落とすと、頭を振った。
「姉さんも無念だろうに」
 無念なのは叔父の方かも知れなかった。
 叔父もまた末の子どもを亡くしたばかりだ。
「あたしは働くから」
 ファナはかさついた唇を開くと弟たちを前に押し出す。
「この村に残って働くから、弟たちを頼むよ」
「働くったって・・・」
 子どもが一人で働く場所などありはしない。
「大丈夫です」
 不意にファナの肩が引き寄せられた。
 まだ声変わりもしていない少年の声がすぐ後ろで聞こえる。
「俺の家に来ればいいから!」
 幼なじみのアグンが息せき切って言った。
「あんたの家で?」
 ファナは唐突な申し出に困惑する。
 アグンの家も決して楽だとは言えない。
 そこに他人が一人増えるとどうなるのか。
「そんなこと・・・」
「ファナは家に来てもらおうかね」
 アグンの母親が手を差し出した。
「どうせ年頃になったら所帯を持たせようと思っていたんだ、いまのうちに家の中を手伝ってもらうのも悪くない」
 元気な頃の母親と同じように厚ぼったい手がファナの背を叩いた。
「ああ、女の子がいればなにかと便利だ」
 アグンの父親も言った。
「うちにはまだ小さいのもいるからな、ファナに来てもらえれば助かるよ」
 母の寝付いたときに、塩辛いスープを持って訪ねてきてくれたのはこの隣人だった。
「本当に良いのか、ファナ?」
 叔父が眼をしばたかせながら訊ねる。
 どこかほっとしたような表情。
「うん」
 住み込みで下働きをしようと思っていた。
 所帯を持つところまでは考えていなかったが、家族同然のつきあいのアグンの家なら、厄介になるとは言ってもまだ居心地が良さそうだった。
「姉ちゃん?」
 一番上の弟が不安そうに見上げた。
「大丈夫だよ、あんたは叔父さんのところへ行きな」
 すでに土の盛り上げられた母の墓を見下ろす。
 可哀想な母さん。
 騙されたまま死んだんだね。
 最後まで女神さまが助けてくれると信じていたなんて。
 あたしがしっかりしなければ。
 弟の髪をくしゃりと撫でる。
「姉ちゃんは父さんと母さんのお墓を守らないとね」



 ファナの育った村は、広大なヒッタイト帝国の西のはずれにあった。
 遠く北に山脈を望み、険しい山々を越えるとその向こうには明るい地中海が広がっているはずだった。
 もっとも山を越えた者など、誰もいなかった。
 村人の知っている世界はこの土壁の家が肩を寄せ合った貧しい村と、近隣の同じような村だけだった。
 このあたりでかろうじて大きいのは隣の隣の村で、そこではささやかながら市が開かれる。
 広場の真ん中には土壁だが、屋根を板で葺いた小さな神殿があった。
 神殿の神官は村長がつとめている。
 村長とは言っても貧しい村のことだ、いくらか他の村人よりましな生活をしているだけだった。
 このあたりは乾燥地で、穀物が育たない。
 人々の生活は放牧と家畜から採れる毛の取引から成り立っている。
「市に行かんとなあ」
 ある日アグンの父親がぼそりと言った。
 刈り取った山羊の毛は紡いで貯めてあった。
 アグンの母親に教わりながら、ファナも不器用に糸を紡いだ。
「そろそろ、毛糸を売りに出すか」
 村の土地は痩せている。まばらに生えた草を食べて生きる山羊たちも毛並みが良いとは言い難かった。
 どうせ買いたたかれるのだ。
 アグンの母親は暗い顔でうなずいた。
 商人達は華やかな都からやって来て、貧しい村から山羊の毛を買い集めてゆく。
 その毛糸はまた貧しい村で染められ織られて、アグンの一家には手の届かぬ金額で街の市で取引されるのだ。
 買いたたかれているのは分かっても、ここでは育たない麦を手に入れる方法は他になかった。
「アグン、お前もそろそろ市に行ってみるか?」
 部屋の隅で敷き草を広げていた息子に問いかける。
「本当!?」
 息子は顔を輝かせた。
「市に連れて行ってくれるの?」
「ああ、道中きついがな」
 市の立つ村までは歩いて三日かかった。
 息子がその行程に耐える年齢になったと判断したのだろう。
「ファナも一緒に行くか」
 水くみを終えてちょうど戸口に立った姿を振り返る。
「村には神殿もある、母さんのために祈るのもいいだろう」
「母さんの?」
 そう言えば、葬儀は村人達の手で行われた。母のために祈ってくれる神官などいなかったのだ。
 神殿には本物の神様がいるのだろうか。
「じゃあ、これをお供えに持って行きな」
 アグンの母親は言うと、籠の中からひとかせの毛糸を取りだした。
「あんたが紡いだんだからね、あんたのものだよ」
 ごわごわとした手触りの毛糸を受け取った。
「小母さん・・・」
 固まりを胸に抱きながら、ファナは言葉を詰まらせた。
 この不器用な毛糸でも、一家にとっては大切な収入源のはずだったからだ。
 ファナはこみ上げてくるものに顔を伏せた。
「こんなにまでしてもらって・・」
「お互い様だよ」
 母親の手が、またファナの背を叩いた。



                

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